9月の観測室

 夜風の匂いが変わって、秋が背中から触れてきた。
 僕がこの観測室での仕事を始めてから、もう半年近くになる。毎日規則正しく天文台までの坂道を昇り、陽の動きや星の流れを記録し、そうして坂道を降りていく。太陽と月が変わらず巡るように、僕の仕事も変わらずに続いていく。数字とグラフとデータと日付と、それらを入力する仕事。僕がやっている仕事は、本当に必要なんだろうか。眼の前のコンピュータは弱い光を僕へ放ちながら、無意味な数字の入力を待っている。

 その2等星の名前を、クラシという。
 理由は分からないけれど、本人がそう呼んで欲しいというものだから。彼は30光年離れた場所から僕の声を聞いている。よくぼんやりと考え事をしていて、哲学的な質問をしてくることがある。僕は彼への返事の中に冗談を混ぜてみるのだけれど、つまらない返事にはうんと厳しい。タイミングとか言葉選びとか、細かく指摘してくる。でも、面白い部分はきちんと褒めてくれる。ややマニアックな話題が好きらしい。

 8月のある日、僕は小暮室長にその悩みを打ち明けた。どうしても仕事を続けていけない僕に、小暮さんは優しい姉のように語り聞かせてくれた。
 「星も太陽も、何も語らないわ。だからそれらを記録していく私たちの仕事は単調かもしれない。でも、繰り返しの中には常に違うリズムが流れているし、二度と同じ太陽の光を浴びることはできない。今夜の星が瞬くのは、今夜だけ」
 そういうと小暮さんは少し笑った。
 「分かってはいるけど、私も忘れてる。だから、ここからは個人的に思うことを話すね」
 小暮さんはメガネを外して、そのままの瞳で僕を見た。
 「一度として同じ日は来たりしない、なんて皆知っているけれど、やっぱり信じている人はいない。調べようもないけど、きっとそう。なんとなく昨日と今日が曖昧になって、今日と明日は同じになって、そうして過去も現在も未来も、全ての時間が止まってしまう。でも、それで良いんだと思う」

 クラシは笑う。
 何も語らないらしいよ、俺。でもさ、こうしてお前は俺の話を聞いてるわけじゃん。30光年も離れてるくせに、隣にいるみたいにさ。これっておかしな話だよね。せっかく仕事に悩むお前にアドバイスをくれてるのにさ。でもさ、あんまり話の上手い女の人じゃないっぽいね。まぁ綺麗だけど。俺はそれで全部満足だけどね、美人ならさ。

 「あなた、好きな人はいる?」
 そう言われて僕の右手は固まってしまった。その掌には何もないと分かっているのだけれど、気を抜いてそれを離してしまわないように、こぼれていかないように、強く握りしめていないといけないと思ったのだ。この人の前では。僕は小さく、頷いた。
 「好きな人といるとさ、この時間が長く続いてくれたら、って思う時があるじゃない。ふと自然に眼が合って、それから笑っている相手を見た時。フォークを持つ指の形がとても綺麗だなぁと思う時。私の場合なんてそんなに大した瞬間じゃないんだけどね。それを強く思うようになったの、この仕事を始めてから」
 「時間は有限だし、無限に続く一瞬はありえないけど、積み重なった層のひとつひとつが今を作ってる」
 「それを証明するのが私達の仕事。そう思うんだ。とても小さな変化だけれど、確実に太陽を動かし、この地球を回し、私とあなたを遠くへ連れていくの」
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