「助ける」と「救う」

 善なるもの、というのは、とても危ういバランスの上に成り立っている。
 何を良しとするか。その選択をするだけでも、人生なんかでは時間がまったく足りない。
 何が善いとされるか。その評価は無限に解が存在する、ブラックボックスの中の鏡越しの方程式。
 その中に答えを一つ。

 「助ける」行為は出来るだけ両者の間でフェアな形を目指すべきだ。例えば金銭的に。例えばお返しを何でするかについて。助けられたら、助けられた恩返しをすること。つまり、コミュニケーションの形態のひとつである。
 「救う」行為は直感で行われるべきだ。後先や駆け引きや交渉の余地はない。あなたがそう思った、ただそれだけの理由で、相手を救うべきだ。それは命が失われる時。それは取り返しがつかなくなる時。そう感じた、なんとかしなければならないと思った、何か出来ることを探した。理由はそれで良い。偏った主観の判断で充分だ。存分に相手を「救おう」としてくれ。

 「助けたい」とは誰もが思うものだ。恋愛、商売、駆け引き、友情、家族、交流。あらゆる場面で自然に発生する。
 「救いたい」気持ちは育てなくてはならない。時には社会が、時代が、親が、友人が、自分が。放っておくとなくなる。

 善なるもの、というのは、とても危ういバランスの上に成り立っている。
 今、身近な人がそれを備えているとしたら、全力で保護すべきことなのかもしれない。