君と誰かの、恋の詩。

 「俺の人生は、この歌で始まったんだよ」
 おこちは馬鹿みたいに眼をキラキラさせて、少し鼻息を荒くして、私にイヤホンを向けた。
 聞こえて来たのは、坊主の高校生には似合わないような、甘くて優しい、恋の歌だった。
 夕暮れの校舎にはあんまり人も居ないから、大声で歌ってても気になんないぜ?ボリューム全開でオンステージだぜ?と、おこちは言ったけど、私はそんなことしたくないなぁと思った。
 第一、恥ずかしいでしょ、人に聴かれたら。
 イヤホンは二人の間の距離を測るようにお互いから垂れ下がっていて、それが結ばれて一本のラインにまとまって、おこちの大きな手の中のiPodに繋がっている。今度はそこから懐かしい音楽が溢れてきて、ラインを駆け上がるようにして、私とおこちの身体の中に響く。そうして、おこちと私は同じ響きを共鳴させる一つの装置になる。
 おこちの背は私より随分と伸びてしまって、装置としてはデコボコかもしれないなぁと思う。この間まで、そんなに違いは無かったように思うけど。男の子ってすごいんだな。でも同時に、なぜか、おこちがすぐに遠くへ行ってしまうような気がして、ほんの少しだけ嫌な気分にもなった。それはもう、どうしようも無い。どうしようも無いって分かっている。

 おこち、もう少しゆっくり大人になってよ。私、走るのも食べるのも遅いから、あんま早く行かないでよ。
 置いていかないでよ。


 おこちは気にせず大声で歌いだす。私は歌が上手く無いから、こういう時、少しおこちが羨ましい。頭に響いているヴォーカルの声と、おこちの声は全然似ていないのだけど、あんまりその笑顔が爽やかだったから、上手いんじゃない?と褒めてあげた。おこちはにやっと笑って、そうだろ?とか言うから、その丸坊主をペチペチ叩いてやった。調子に乗るな。
 

 結局おこちは、どうしてその歌で人生が始まったのかは教えてくれなかった。
 ただ、おこちはこの歌を聴いた時に、自分の大事なものと、大事な人が、はっきり分かったんだって。そういうのって、素敵だなと思う。
 お互い今は別々の会社に入って、同じ東京だけど離れて暮らしている。たまに連絡が来る時は、大抵が彼女との悩みごとの相談だ。


 私も、大声で歌ってみれば、分かるのかな? 分かってるつもり、なんだけどなー。
 今度行くおこちの結婚式で、この歌を歌うって言ったら、おこちは恥ずかしそうに笑ってた。
 笑って、良く覚えてるなって、そう言った。その瞬間のおこちは、昔の笑顔のままで、私はまたおこちが好きになりそうになった。だから無意味に頭を叩いてやった。おこちは笑いながら居酒屋のトイレへ退散した。
 
 しばらくは、イヤホンのボリュームをあげて暮らしていこう。
 私の歌が、誰かに届きますように。