夜に駆け出す公僕の王

 波の音が聞こえる夜は、誰かが僕を必要としている。
 起きることをコントロールできる人間が、この世には何人いるんだろう? 僕はそれができる数少ない人間だ。特技は早起き。もちろん、眠気が無い訳じゃないし、人と同じように身体を休めなければ体調が悪くなる。でも、僕にはそれができたし、するべき理由があった。

 僕はまだ夜が明ける前に家を出る。両親と妹を起こさないようにしてこっそりと抜け出す。愛犬のペペはどうしても眠らせておくことができないので、いつもソーセージをあげることにしている。ペペはそれで、僕のことを黙っていてくれる。
 家を出て僕がまずすることは、深呼吸をすること。心を落ち着かせて、これから見ていく様々なものに備える。備えたってどうしても怖くなったり、落ち込んでしまったりするのだけれど、それは仕方ないと、心に備える。そして、僕のすることに意味があって、誰かを幸せにすることだろうと、心で確認する。

 僕が今夜の相手、彼女の家の側についたときは、まだ暗い空が広がっていた。11月はもうひどく寒くて、僕の両足と両腕はブルブルと震えていた。彼女の家は、まだその「かたち」をとどめていて、いつもよりは大変じゃないんだなと、少し安心する。ひどい日は彼女のような人の「夢」が隣の家や道路にはみ出して、辺りを一面、静止した波間のようにグニャグニャに変えてしまうのだ。たいていは溶けたように形を変えるのだが、たまに何かの形を取ることがある。道路の橋に人の顔が彫刻のように浮き出ていたり、家の塀に別の場所が覗き見える小窓ができていたり。そういう時は、僕がその「変わってしまったもの」に触れる。そうして彼女の歪んだ気持ちを汲み取る。たいていは、悲しい気持ちが心を埋めてくる。彼女の心に背負いきれなかった、苦い記憶だ。僕が苦しくて溺れそうになると、全ての形が元通りになっている。

 僕は誰かから以前汲み取った歪みを利用して、二階の窓に穴を空ける。彼女はすやすやと眠っていて、毎晩のように世界が変わっていくことに気付かない。安らかな寝顔。ただ彼女の周囲はドス黒く腐った大地のように汚れていて、その心に抱えた苦しみは底が知れない深さと闇がある。
 僕はいつもこの瞬間が苦手だ。目の前の女の子を、誰かに汚されてしまって、そうしてもう戻らない、何も元通りにはならないんだと、突きつけられているような気分になる。そうして、今できることを、する。
 僕は彼女に触れないように気をつけて、その暗く、汚い、腐った大地に手を触れる。彼女の「最悪な想像」が、僕の内側へ流れ込んでくる……。

 一時間目と二時間目は、大抵寝ている。そして僕の眠気がはっきりしだすのは三時間目から。友達と楽しそうに話したり、静かに本を読んだりして過ごすクラスメイトの女の子を見て、僕は少し安心する。僕のしていることに、きっと意味があるのだと、そう思える。

 彼女は最近、一人の男の子をよく見ている。僕だって気付かない訳じゃない、きっと、彼女はその子が好きなのだろう。クラスでも一番落ち着いていて、友達付き合いも上手い、あいつだ。僕もあいつは嫌いじゃない。分け隔てなく優しくて、たまに損するお人好しだ。分からない、わけではないけど。
 あいつは彼女を救ってくれるのだろうか。言葉にできない不安や恐れを、あいつは分かってあげられるのだろうか。彼女の生きていく世界を、少しでも良いものに変えてくれるのだろうか。
 救いが必要なのは、何も陽の出ているうちとは、限らない。それを分かってくれるだろうか。あいつは。