緑への亡命

 亡命した男は考える。日々の労働の中に、言葉の中に答えを探している。

 最近の自分なら、よほどのことが無い限りは平穏な生活を続けている。
 例えばそういった生活の先に何があるのか、未来って明るいの?なんて問題は、自分には意味がない。そう、今は思える。やはり自分が生きている実感を得られるのは、日々の出来事の中であるし、より具体的で肉体的な痛みや疲労や流れる汗のような気がする。そう、自分は考える葦であると同時に、無心に回る歯車でもあるのだと、暑さの中気付いたのだ。これはやはり、どうしようもなく、現実だ。

 例えばそういう現実を前にして、どうして物語るのかを、考えてみよう。物語るのは必ずしも我々に必要ではない。というか、必要でない時間の方が多く、人生をそれに費やそうとする人はとても希有な存在だ。人が生きているのは現実だ。それぞれの見方や見え方、捉え方は違えど、ひとつの現象の中に関係し、影響している。でも、どうして物語るのか。また自分は汗をかきながら考えて、そして気付いた。物語ることと、生き方とは、良く似ている。

 人がヴァリエーションだの、互いの差異だのを感じるのは、生き方が違うからだ。現実を共にして生きているはずが、知らない内に「あぁ、お前とは、歩く道が違うのだなぁ」などと想像してしまうのは、生き方の違いが顕著になっているからである。ベースとして現実を共有しているのであれば、あとはその影響を取り込んで吐き出す反応が生まれるのは自然なことだ。生き方はソフトウェアであるとでも言えば、分かり易いか。

 物語ることは、実は、言葉を得る前から行われている。それは、暑い日に汗をかくように、不快に感じて赤子が泣くように、現実からの反応である。物語ると名付けることで見方を変えただけの、実は生き方、そして肉体の反応である。

 どうして物語るのか。それは、そう考える前提についての質問である。そう考える時、すでに物語られている。故に、答えは出ないのではないだろうか。

 ただ、それは、どうしようもなく楽しいことだと、解釈している。