ポルさんのこと
ポルさんが死んだ。
それは丁度、夏と秋が交代した日のことだった。僕は港まで父さんの漁船を迎えにいく途中で、自転車で海まで続く山道を下っていた。その日は太陽から届く光が少し弱くて、その代わりに風が少し強くて、下るスピードが速くなるにつれて、両指の爪が冷たくなるのを感じた。僕はまだ13だけど、その感覚はよく覚えていて、きっとこれから秋が来るのだと思ったのだ。
防砂林の横を通り過ぎて、港に着くともう父さんの漁船が着いていた。その船は黒い真珠のマークが入っていて、でもいつもと雰囲気が違うことに気付いた。……旗が無い。漁が終われば、それが大漁でもそうでなくても、父さんは旗を掲げて戻ってくるはずだった。なのに今日は? 何かがあったのだろうか。僕が父さんの船に近づくと、人が大勢集まっているのが見えた。何人かは顔見知りの港の職員か漁師仲間の人達だけど、見慣れない黒服の人達がいた。女性は黒いローブのようなもので全身を隠し、何かをしゃがんでつぶやいている。
「父さん、何があったの?」
「ポルロッカが、網をほどこうとして、飛び込んで、流された」
ポルさんの葬儀はすぐに終わった。涙を堪える声と、鼻をすする音。みんなが若すぎるポルさんの死を悲しみ、深く心を痛めた。町長のミスグさんが、ポルさんがみんなの悲しむ顔を見てもきっと喜ばないと言った。みんなはそれでも泣くことを止められなかった。
それから港へ行き、みんなが思い出の品を持ち寄り、それをポルさんの持っていた海釣り用の小舟に載せた。携帯ラジオ、異国のレコード、コーヒー豆、みんなの写真と、ポルさんへの手紙。『ポルロッカ・リガード・マセルシ、安らかに眠る』。全てを載せた船は、父さんの漁船に引かれてゆらゆら揺れながら、港を離れていく。みんな泣いていた。僕も、少しだけ泣いた。ポルさんがどうしてこんなことになったか分からないけど、海と生きる人間には、いつも付いて回ることだから。
その晩、みんながポルさんの思い出話をした。一緒に熊を追い返したミーシャさん夫婦、オレンジの木の収穫を手伝ってもらったモリーニさん、いつもポルさんから魚を卸していたレストランのトリトニー料理長。みんなが悲しい思い出話をする度、宿のおかみのシュルトさんはワインをついでまわった。
ひとり、部屋の隅で小さく膝を抱えて外の星を見ている女性がいた。ワインにはあまり口を付けず、でもみんなの言葉に耳を峙てて悲しそうな表情をしていた。
「あなたは、みんなとワインを飲まないんですか」
「あら、あなた。ポルの言っていた少年ね」
「少年?」
「そう。青い瞳のきれいな少年がいるんです、って」
そう言うとその女性は僕のまぶたを少し開いて、僕の虹彩の色をまじまじと見た。そうして、少しだけワインを飲んだ。
「私は、一人で良いわ。みんなと話せるような話は無いから」
「どんな話ですか?」
「あまり、楽しい話じゃないわ」
「聞かせてもらえませんか?」
暗い海は底の無い深い闇のようだ。ポルさんはその海に飲み込まれて沈んでいってしまった。昼間の海はあんなにきれいなのに。きっとポルさんはそういう人だったんだ。きれいな海を愛していた人、夜の海には近寄らないように生きていた人。だから、海にのまれたんだと、僕は思った。
「私、ポルと結婚する約束をしたの」
そう言うと女性は波打ち際まで歩き、足先を暗い海の裾に浸らせた。
「でも、ポルは嫌がったわ。やっぱり、君とは暮らせないって。だからそんな幼い頃の約束は、忘れてくれって」
女性は小さく波を蹴り、泡ができた。
「あなたは、船に何を載せたんですか?」
「家族の写真よ。母と、私と、彼と、彼のお母さんの、並んだ写真。私たち、遠い、いとこだから」
「知らなかった」
よく見ると、ポルさんと髪の色がとても似ていた。鼻が少し高いのも、なんとなくポルさんを思わせた。
「ポルは、大人になったのよ」
「大人?」
「優しくて、強くて、みんなの役に立って。私みたいに、小さい頃の約束を夢見ているなんて、そんなことしない。ポルは大人になったの」
まだ宿からは、宴会と誰かの話す声が聞こえる。
「だからこそポルは、早く死んだんだわ」
波の音は静かで心地よい、でも確実に砂を海へ引きずり込むものだと、僕は思うようになった。