仕事と人と。
入社して三年目。仕事と人について、少し分かったことがある。
それは10月の少し肌寒い日曜だった。気付けば秋、もうすぐ冬なので、そりゃそうかとスーパーで買い物を済ませた男は、家で鍋を作り始めた。今夜は牡蠣鍋をどうしても食べたかったのだ。台所で牡蠣を水洗いしていると電話がかかってきた。
「久しぶりー」
いつも通りの軽い口調で話す相手は、大学時代からの友人であった。少しおっとりした口調で喉がかすかに枯れていた。おそらく疲れているのだろうと、男は思った。
「突然で悪いんだけどさ、少しお願いがあって」
そう話す友人は、今自分の仕事で困っていることがあること、それを解決できるのはこの男だけであること、とにかく急いでもらいたいことを、おっとりと伝えた。男はそれを聞きながら、目の前の牡蠣と他の材料とこれから美味しく出来上がるであろう空の鍋を見ていたが、友人の困りごとを手伝うことにした。
「で、用件って何?」
依頼されたのは、他人名義の原稿の執筆であった。本来書くべきライターが途中まで仕上げられず持病で入院、締め切りは日曜の24時であった。
男は大学時代から物書きを目指していて、オリジナルの物語も周りの評価が良く、幾つかの公募に作品を送った。しかし結果は端にも棒にもかからず、結局芽が出ることは無かった。卒業後、それでも書くことだけは止められない男はカルチャーセンターの事務と営業をしながら、地道に作品を書き進めていた。書かずにはいられない男はくすぶっていた。友人はそれを知った上でか依頼をしてきたのだ。
「大丈夫、大事な日曜の休みだろ、短い文だし、すぐ終わるから。それじゃ、詳細はメールで送るから」
と、電話が切れ、男は空の鍋を見ながら、少し安請け合いをしたと後悔しはじめていた。
パソコンを立ち上げるとメールが届いていて、そこにはある健康補助食品についての紹介記事を依頼する文面が書かれていた。特徴、使用者の感想、メーカーが伝えて欲しいポイントなどが書かれていて、それを元に記事を書く。それ程難しく考えずに、男はそれを書き始めた。しばらくすると、また電話が。
「ごめん、もう一件頼めるかな」
男は嫌な予感がした。そして、そういう予感は男の場合、大抵当たった。友人はまた幾つかの原稿の依頼を持ち込み、男は半分程原稿を書き終えたよと伝え、友人は「相変わらず仕事が早いな」と電話の向こうで笑った。
「詳細はまたメールで送る。本当にごめんな。せっかくの日曜に」
男は、台所の牡蠣鍋にこれからなるであろう食材と、時計が21:30を指しているのを見て、ため息をついた。すると、また電話がかかってきた。
「ごめん、これで本当に最後にするから」
鍋が煮えていた。男は友人の態度に嫌気が指し、原稿を全て破棄した。消去、消去、消去。大人げないと思いながらも、そもそもこいつの勤め先にそんな義理は無いのだと、冷静に罪の意識を排除していった。友人は電話先で機嫌を取ろうとしていたのだが、それも無理だと分かると、急にしおらしい態度で謝りだした。男はそんなことかまわず通話を終了した。
男は、自分に驚くくらい罪の意識が無いのに驚いた。それはおそらく、友人のこともその勤め先のことも忙しいのだろうとは思いながらも、手伝ってやらなくもないのだが、何かを見落としている人達なのではないかと、思ったからだ。男はあらためてそういう人達を憎むことを決意した。
鍋が煮えている。もうすぐ夕食の時間だ。