バロンはもういないよ。

 その街にバロンがやってきたのは、3年前。
 最初に街角でバロンに会った男の子は、とても背の高い人だなぁと驚いた。黒いスーツと長いステッキ、微笑む笑顔と頭をなでてくれる白い手袋。少年はバロンのことを本物の「紳士」なのだと思った。
 街中でもバロンを見た人は大勢いた。ある人はバロンを太った炭坑夫だと皆に語り、またある人は女性のヴァイオリン弾きだと証言した。大勢の人がバロンを見たのだが、その誰一人として同じバロンは見ていなかった。しかし誰一人として、そのバロンを信じて疑わなかった。なぜなら、各々がそれぞれのバロンを初めて出会った「本物の人」なのだと、感じたからだ。
 人々はバロンとまた出会う機会を探し続けたが、ついにバロンは表れなかった。街へ移住してきた人や今までバロンに出会っていない人が出会うことはあったが、待てど暮らせど表れなかった。次第に人々はバロンを待つことを忘れ始めていったが、何人かはそれでも待ち続け、探しに街を出るものもあった。

 ある日、街の酒場で酔った3人が口論になり、バロンの本当の姿についての論争になった。郵便局員だと信じている青年が、医者だと信じている男の子の父親と口論になり、それを仲裁しようとした老人が巻き添えで突き飛ばされた。老人は打ち所が悪く意識を失い、すぐに医者の所へ運ばれたが手遅れであった。孫娘は泣いて涙を枯らした。それでも青年と父親は争いを止めようとせず、次第に周囲の人のバロンを待つ心にも、小さな波を立て始めた。
 
 男の子が二度目にバロンに会ったのは、それからしばらく経った頃であった。街はただ静かに、相手を利用し合う場所のように感じられた。男の子はそんな街の雰囲気が嫌になってしまい、町外れのオレンジの木へといつものように遊びに出かけた。
 男の子は最初、その姿に気付かず、お気に入りの場所が取られたのだと思った。バロンは、男の子が最初に見た時と同じような格好でオレンジの木の下で本を読んでいて、なんともないようにページを捲っていた。バロンは男の子に気付くと、ただ、こう言った。
 「私は、この街を出るよ」
 そのままバロンは風のように消え、男の子の小さな心には小さな穴が空いた。

 男の子がそのことを街へ伝えようと戻ると、いつもより街は更に静かになっていた。小さな波は街中に広がり、端に伝わっては中心へ戻り、波は大きくなった。朝日が昇る度、夕陽が沈むたび、一人一人がドアに鍵をかけ、手に相手を叩いたり斬りつけたりする道具を持ち、それを放す時は無く、両腕に抱えるように眠っていた。
 男の子は街中でバロンの言葉を言ってまわった。バロンは街を出たよ、バロンはもういないよ!
 すると一人の少女がこう言った。

 「もうバロンなんて、どうでもいいのよ。あんなやつが居たから、こんなことに」