遅れて言えた言葉。

 彼がまだ母親の胎内にいた時、ひとつ約束をした。
 母親はとても時間に厳しかったのを彼は覚えている。それでも彼はいつも、様々なことが人より遅く、自分ではどんなに急いでもどうしてか遅れてしまったので、よく母は彼に苦い顔をした。
 学校は人より早く来ようとしていつもギリギリに間に合っていたし、彼が好きだった陸上でも一番を取ったことなんて無かった。大学に入って一人暮らしすると、いつも授業の最初は間に合わず単位も苦労した。就職しても人より時計を早くして全てを急いでやっと、仕事だけは遅れずに進むようになった。目覚めが悪いわけでも、約束を疎かにしているわけでもなく、彼は遅れた。ひたすらに謝り続け、遅れ続けた。そして、母親の死に際にも遅れた。謝る相手は何処にもいなかった。

 母は彼が幼い頃、こう約束した。「長く、同じ時間を生きていけますように」。
 彼の父は、母が妊娠したころ、すぐにこの世を去った。母親にはこれが一番の悲しみだった。どんなに一緒にいたくても、いずれできなくなる。それは分かっていたけれど、母親には、母親になったばかりの彼女には、少し早すぎた。

 彼にはその頃付き合っていた彼女がいた。彼女は彼がどんなに遅れても、唯一許してくれていた人で、彼はいつもそんな彼女に感謝していた。
 彼は母が亡くなった夜、自分の人生について、彼女に生まれて初めて相談した。いつも謝って言い訳一つしなかった彼の、初めての相談を彼女は聞いた。彼はいつも時間を守ろうとしていたこと、しかしそのどれもが、様々な理由で遅れてしまっていたこと。彼はその全ての理由をひとりで抱えて、ひとりで遅れを取り戻せずにいたこと。
 彼女は全てを聞いた。

 朝になって、夜になった。そして朝が来た。
 
 多くの人がまた家を出る。約束を守るため、約束をした人の元へ向かって。
 彼は彼女の家を出た。いつもとは違う道順で会社へ行き、上司や同僚に自分の代わりにした仕事を感謝して、その倍仕事を引き受けた。夜遅く仕事を終え、彼は家へ向かった。彼女の家へと。
 自分の約束を、彼女に受けてもらう為に。

 「あなたより長く生きてみせます。見守ってみせます。だから一緒にいてください」