聖書の時間。

 聖書の一節をとりあげ、説教を聞く時間があった。
 昔、高校はキリスト系のところに通っていたので、毎朝礼拝堂に集まって聖書を読んだ。神父と牧師の区別もよく分からない高校生だったけど、聖書の一節を元に、それを解説しながら現在に重ねてどう読み解くか、というのはなかなか面白かった。たいていの生徒は朝は眠いし遅刻するやつもいて、一部を除いてきちんと聞いているやつも少ない。自分はその一部の人ですらなくて、なんだか浮いた気持ちでいたのを覚えている。
 説教をする人は日替わりで、もちろん本職の神父の人もするんだけど、聖書の時間の先生や英語の先生もいつもとは違う顔、言葉で聖書を読んだ。家族のこと、趣味の音楽のこと、芸能人のことと、高校生や中学生でも分かり易いように言葉を置き換えながら、その意味を伝えた。多くは「奇跡」について、だったように思う。
 「奇跡」とは何だろう。今まで本当に困った時に奇跡が起きたことなんて無くて、奇跡を感じたことも無くて、奇跡だ!と思ったのはせいぜいレポートを忘れてた講義が休講だった時くらい、そのくらい小さなもの。
 悪霊が豚に乗り移り崖から落ちていったり、パンをちぎって分け与えようとしたら結局7カゴくらいに増えたり、三日後に復活したり、そりゃ奇跡なんだけど、なんだか自分の世界にはそぐわない気がする。
 たとえ奇跡が起きなくても起きても、それは仕方の無いことだろうし、それを後悔したり恨んだりするなら、努力不足の自分を恨むと思うんだ。やるだけやって、その上で奇跡が起きて欲しいってのは、なんだか望み過ぎというか、努力して精一杯やったんならいいじゃないか気持ちよく終わらせなよとか思うんだ。望んだものが手に入り過ぎた時、それは「実力と実績のバランス」が崩れる時だと思うし、それって今の自分には不安と心配しか招かない気がする。
 今の自分がなんともつまらないのは分かっているつもりだけど、それでも「奇跡」について考えなくてはいけない時がある。
 それは物語の中での「奇跡」だ。
 奇跡はどうして起こる? 奇跡はどうして奇跡になる? 奇跡のリアリティはどう扱う? 課題が一気に爆発する。でも、物語には奇跡が幾つか用意されている。それは見えない形がほとんどだから、気にならないけれど、登場人物達がもし奇跡を信じてしまうようなら、その時の奇跡はいったいどんなものを用意すれば良いんだろう。実生活でも実体験でも、奇跡に疎いとそこに手を出せなくなる。でも、すごくよく出来た物語を見た後は、「奇跡」を信じてみるのも悪くないかも、と思えてしまうから困ったもんだ。