ハリウッド/アクション世代の少年

 ターミネーターランボー、ダイハード。激しい爆発と衝撃音。物陰からの銃撃戦。床に散らばり続ける薬莢。
 幼い頃の少年は、彼らの世界に熱狂した。

 孤立無援のヒーローが、行く手を何度も邪魔されながらも、次々に悪人達を打ち倒す。ただスクリーンだけが明るい映画館の中で、少年は自分の汗ばんだ右手を強く握った。少年の幼い爪が掌に食い込んでいくと、自分には撃つべき銃が無いことに気づいた。スクリーンのヒーローはマシンガンを撃ち尽くし、ハンドガンに持ち替え撃ち返していく。少年はさらに爪を食い込ませた。

 少年の周りには危機迫る状況も、倒すべき明らかな悪人も居なかったが、それは少年が銃を持たない理由にはならなかった。単に銃を撃ちたいのではない、悪を討ちたいだけでもない、正義を為したい訳でもない。そんなことは少年にとってどうでも良かった。しかし握り込んだ掌の痛みは、何かを手にする為の力で溢れていた。それを何処へ向けていいのか分からず、誰に話したら良いのかも分からず、ただそれを純粋に満たしてくれる映画館へと、少年を通わせることとなった。


 21世紀初頭、アクション映画が現実世界のリアリティに大敗し、人々の求めるヒーローは一気に複雑化した。悪人は銃だけでは死なず、ヒーローも一人では戦えなくなった。ハリウッドの産業が衰退していくと共に、ヒーローも悪人も仲間を増やし、アジトと家庭が東にも西にも建てられ続けていた。どちらの仲間内にも小さい悪人と小さいヒーローがいて、誰を撃って良いのか誰を守っていいのか、誰にも分からなくなった。

 それでも誰かは誰かを撃った。近所の五月蝿い住民も、海の向こうの穏やかな民族も、撃って撃たれた。たぶん、撃たれた方は悪人だったのだろう。撃った方がヒーローかどうかは分からなかった。撃つことに意味があったのだろうか。とにかく、撃たれることに意味はほとんど無かったのは確かだ。

 幼い頃の少年は大人になった。今でもたまには映画館に通い、気に入った映画はレンタルしてもう一度見た。ワイシャツを着崩したまま、ビールを呑みながら何度も何度も見ているうち、大人の中にいた幼い頃の少年は世界のことを考え始めた。漠然に、でも想像力を精一杯働かせて、狭い部屋から東京の夜空を見上げていた。

(今の少年達は、何を見ているのだろう?)

 思い浮かぶのは幼い頃の自分では無かった。それは確かだった。呑み残しのビールを台所のシンクに流した。汚い排水溝からひどい臭いがして、いくつもの泡が吹き上がっては弾けていた。派手な銃声も爆発もそこには無かったが、確実にこの世界には溢れていた。