近所を観光する。

自分の住んでいる街を、実はよく知らない。もう2年と少しこの近辺に住んでいるけど、近所ではスーパーで買い物したり本屋を覗いたりするくらいで、公園も学校も知らない。何処で毎年夏祭りをしているかとか、出前を取るなら何処のそば屋が美味いとか、知らない。なんだか残念なことに気づいたので、少し遠回りして帰る。
 ふらふら路地裏に入っていくと、個人の呑み屋が二軒。建物の形からきっとカウンターくらいのスペースなのだろう。近所から晩酌を楽しみに歩いてくるおじさん達を想像して、歳をとるのは楽しそうだと思った。そばにちょっとオシャレなイタリヤ料理屋を見つけた。ちょうど子育てを終えたような夫婦が入っていくところだった。旦那さんのジャケットは落ち着いた濃緑色で、その姿がゆったりとドアを開けて入っていく。もう少し歩くと木造の内装があたたかい、小さな洋食屋を見つけた。すこしメタボ気味なのか、恰幅の良い美味しいハンバーグを焼きそうなコックさんがカウンターの中にいた。側には伝票を持ってエプロンをつけた女の人、おそらく奥さん。雰囲気のあるいいお店だった。

 自分はあまり他人を見ない。というか見れない。もちろん眼は合わせて話すけど、その人の焦点を覗きすぎないように注意しなくてはいけない。目の前に誰か人がいると、関係の無い他人のふりができない。リアクションを求められて、何をするかはその時々だけど、何もしなくてもなんとなく関係している感覚にとらわれる。それはベッタリとしたねばりけのある感覚で、たまにすべて洗い落としたくなる。何度もシャワーを浴びてもボディーソープでゴシゴシやっても、気持ちよくならずに残る。ネバネバしたものに慣れるといろいろと行動が自由になるけれど、何処までいってもその糸が切れていないことに気づく。何処かで何かが自分を制限している錯覚に眉間が痛くなったり、その糸に制限されたフリをする為、動きがぎこちなくなったりする。
 きっと今まで街の人に関心を持たないようにしてきたのは、そういう理由からだろう。バリアを張れず、同調してしまうこと。でも、個人の世界では関係したくないものを、街の世界まで大きく広げると、見えるものが違う。役割の明確な、街の関係は良いなと思う。店と店の関係、家と建物の関係。型や関係がハッキリしているからだろうか。