向上意識と成功と、乗り越えられない場合のペナルティについて。

 物語とは人生を意味するし、人生もまた物語に影響を受けて、育つ。
 これはもう、何度も意識していることだ。日常生活でも想像や空想を広げる時にも。仕事をしていても、人間関係で引かれ合ったり反発しあったりして、互いに何かを交換したり混ぜ合わせたりする。それは仕事の「スタイル」だったり、「目的意識」だったり、大切な物の「重み」だったりする。
 物語がもう何度も描くように、人は壁を越えて育つ。痛みを受け入れて、その先を照らす。これはもう、絶対の真理なんだ。苦難は成長のチャンスであるし、嫌な事は「それを嫌な自分」に気付く良い機会だ。苦しい事、悲しい事、その中で嬉しい事、愛おしい事を経験して、全てをブレンドして飲み込んで、自分が育っていく。
 ただ、乗り越えられなかった場合、そこにはペナルティがいつもある。成長するということは、その危険を常にはらむ。だからこその成長。
 自分が相手に甘い人間だと、物語は緩くつまらないものになり易い。超えるべき相手や出来事は、スケールも密度も無いつまらない暇つぶしに。かといって自分が他人に厳しい人間だと、物語は孤高の強さを持つが、あまりに孤独過ぎて人を寄せ付けない。
 緩くても、締め付けても、人は成長しないということ。極論だが、怠けるか、死ぬか、する。

 その内に、そもそも人は成長する必要があるのか?という疑問が出てくる。
 苦難や苦痛の中に喜びを見出す必要があるのだろうか?
 それは持たざる者達だけの間の、話では無いのか?


 では幸せとは何だろう? 人の数だけあるのなら、どうして同じ名前で呼ぶんだ? 幸福論。

 
 軸の強い物語は、起承転結の中にも、キャラクターの個性の中にも、題材にもジャンルにも媒体にも、読み手の価値観にも、宿らない。宿る訳が無い。
 強い軸を感じるのに、その要素は全て、上に述べた関係ない細部が担っている。
 世界という場所は存在しないのに、皆は意識することが出来る。他に代わりが無いもののはずが、有るか無いかの二択しか存在しないものが、特別な個を感じさせる。

 私が見ているものは、一体何なのだろうか。そしてどうして、それを「描けたら」と思うのだろうか。
 これは「成長」なのだろうか。