ナカオミ・アームチェア

 深夜、道を歩いていると、灯りのついた店を見つけた。
 道路沿いからガラス越しに店内を覗くと、様々な種類の椅子が並んでいた。背もたれの長くゆったりした椅子、二人掛けの赤いソファー、子ども用の装飾の可愛らしい椅子。私はもう少しだけ中を覗きたいと思い、店の中に足を踏み入れた。
 光は店の奥から漏れていて、その先に人の影が幾つか見えた。
 「いらっしゃい、あなたも何か直してもらいたいものをお持ちか?」
  「いえ、突然済みません。椅子を、見たくてつい」
 「ならええ、ゆっくりしてくといい」
 そう言うと、奥の部屋にいた男は、また作業台の上の道具を手にして何やら叩きだした。部屋には様々な種類の椅子の足の部分、皮、そして仕事道具が置かれており、それらが中心に向かって囲むように作業台が置かれている。その他にその場に不釣り合いなものも多く見られる。クジラの置物、風船、フルーツの盛り合わせ、かつらに、子ども用の手袋。これらは何の為にあるのだろう?
 それと、さっき店の奥に入る時は何人かの人影が見えたのだが、どうやら見間違いのようで、部屋には男が一人だけだった。ドアの隙間を覗こうとした時は誰かの気配を感じたはずなのに。気のせいだろうか。
 部屋の椅子達には一つずつ札が貼られていて、名前と日にちが書かれている。おそらく修理の依頼主と、納期の日数だろうと私は考えた。ひとつずつその形、色、つや、細工をじっくり見ていくと、どれも大量生産されたものでは無く、それぞれ職人が作り上げたものだろうと想像がつく。おそらくこの店はそういったアンティークのような椅子を専門に扱う修理屋なのだろう。
 「あなたももし、何か直してもらいたいものがあれば、いつでもどうぞ」
  「ありがとうございます。でも、あいにくこの店に持ち込める程、高価な椅子は買ったことが無くて」
 「良いんですよ、椅子でなくても。時計でも、靴でも、程度によりますが、直しましょう」
 そういうと男はニッコリと笑った。その時作業台で見えたのは、小さな懐中時計だった。
 「ただし、お代は今その場で払ってもらうことになりますがね」
  「高いんですか? やっぱり」
 「お金で無くても良いんです。その場で受け取れる報酬であれば、何でも」
  「何でも?」
 「ええ。何でも」
 棚の道具が少し揺れたような気がした。音は確かにしたのだが、何処がどう揺れたのかは分からない。
 「大事なのは、その場で支払われる価値、なのですよ」
  「価値?」
 「そう。価値とはつまり、時間のことです。どんなに高価なものや、それこそ大金であっても、時間には変えられません。私もいつまで生きられるか分からない。ならば、一番に価値として優先すべきは、その場で支払われること、なのですよ」
  「それでこの部屋には様々なものが置いてあるんですか」
 「そうです。これらは価値として客達が置いていったもの。私の賃金です」
  「あいにく、私は今渡せるようなものが無くてですね」
 「そうですか、それは残念です」
 男は笑いながら修理に没頭し始めた。その時、少しだけ男の顔がにやけたような気がしたのだが、表情は暗くてよく分からなかった。
 「人は貴重さを忘れる。手にした苦労を忘れる。そしてありがたみを忘れる。感謝を忘れる。だから、この店はあるのですよ」

 私はそろそろ店を出ることにした。あまり長居して邪魔してはいけないと、小さく会釈だけをして、店の入り口まで近づく。と、また小さな木のこすれる音がした。私は周囲を見返したが、何が動いたかなんて分からない程、静かな店の椅子達がただ並んで息を潜めていた。
 「またどうぞ」
 私は震えあがった。男でも私でもない声に驚き、思わずドアを急いで出て行く。
 玄関に鍵をかける白い手だけが、空間から抜きでたように見えていた。