世界は気付かない

人物 糸瀬加奈子(28)海外映画バイヤー
   樋口卓也(25)商社社員


東中野駅・改札(夜)
   糸瀬加奈子(28)が駅員ともめている。
駅員「終電車はもう出てしまいまして」
   改札から樋口卓也(25)が出てくる。
加奈子「あ」
   一瞬眼が合う卓也と加奈子。
卓也「あ——」
加奈子「あなた、こんな所で何してるの」
卓也「終電を、寝過ごしまして。それじゃ」
   加奈子の横を通り過ぎようとする卓也。
加奈子「待ちなさい」
   卓也が顔を向けずに立ち止まる。
加奈子「あなた、この街には詳しい?」
卓也「えぇ、まぁ」
加奈子「私を助けなさい。あなたには、それ
 くらいの貸しはあるでしょう」
卓也「(うつむいて)分かりました」


○ 居酒屋「一風味」・店内(夜)
   卓也と加奈子が個室にいる。
   加奈子は料理を食べ大ジョッキを呑む。
   卓也は隅に背中を寄せ、ちびちび呑む。
卓也「相変わらず、お姉さんお強いんですね」
加奈子「そうでも無くなったけど」
卓也「(小声で)そうでもありますよ」
加奈子「何?」
卓也「何でもありません」
   加奈子の胸にネックレス。
卓也「何かのパーティーの、帰りですか?」
加奈子「舞の結納。今日はその帰り」
卓也「舞、結婚するんですか……」
加奈子「なに、妹のこと、今更気になるの?」
卓也「そんなことありませんよ、ただ——」
加奈子「ただ、その役目は自分のはずだ、と
 か言いたいわけ? やめてね、気持ち悪い
 から」
卓也「今更そんなことありませんよ。でも少
 し気になるじゃないですか、自分と関わっ
 た人達がどうなったかって」
加奈子「舞も婚約者の彼も幸せそうだった。
 まじめでユーモアもあって、顔もまぁ良か
 った」
   加奈子が冷や奴を切り、手が止まる。
卓也「なら、良いじゃないですか」
加奈子「あなた、本当にそう思う?」
卓也「少なくとも、今の僕にはどれも用意で
 きませんから」
加奈子「相変わらずジメジメしてるのね、あ
 なたの頭の中」
卓也「そんなこと無いですよ! 今は真面目
 に働いて、あの頃より将来のこと考えてま
 すから」
加奈子「考えてるから何。それであなた自身
 が変わったとでも言いたいわけ?」
卓也「加奈子さんには分かりませんよ。いつ
 も自信いっぱいの人には」
加奈子「そうでしょうね。次々に何かを信じ
 てばかりいる、弱いあなたにはね」
   加奈子が黙って冷や奴に醤油をかける。


○ 線路沿い(早朝)
   千鳥足の加奈子を卓也が支える。
卓也「呑み過ぎなんですよ」
加奈子「言ったでしょ、そうでもなくなった
 って」
卓也「自分でセーブして呑んでくださいよ」
   加奈子がフェンスにもたれ、しゃがむ。
加奈子「あんた、昔の方が良い男だった」
卓也「昔の僕ですか? ただの馬鹿ですよ」
加奈子「違う、あの頃の馬鹿を続けられなか
 ったから、今、あんたは馬鹿なの。良い旦
 那になろうとしてる男も馬鹿。そうやって
 本心殺して女を騙す男は、皆馬鹿なのよ」
卓也「そうなら、世界の半分以上は馬鹿です」
加奈子「ならこの世界は不幸ね。気付かない
 馬鹿に不幸にされる女が多いから。こうし
 て静かに世界は不幸になっていくから、気
 付かない間に」
   加奈子が空を見上げると、白んでいる。
卓也「舞は、幸せになりますよ」
加奈子「どうだか」
卓也「少なくとも、僕を選ばなかったのは、
 良い選択だからです」
   卓也を見つめ、堪えられず笑う加奈子。
卓也「なんで笑うんですか!」
加奈子「真面目な顔はやめて。似合わない(笑
 う)」
卓也「もう、行きますよ」
   卓也が加奈子を立たせる。
   卓也と加奈子が駅へ歩いていく。