大勢の中で

 「男は何も生み出さない。できるのは、もらったものを分け与えるくらいだ」
 今年で15になる妹が。会話の流れなんて無視して急にそんなことを言い出した。母は思わずほうれん草のおひたしを摘む手を止め、私は思わずおかずのかぼちゃをお味噌汁の中に落として、頬に飛んだ汁で熱い思いをした。妹はそんな私を無視してさんまの骨をいかにキレイに取るかに夢中だ。私はますます妹がよく分からなくなった。
 妹は中学3年生になって新しい担任の先生になったらしい。それまでの先生は産休で休みになって、代わりに来たのが同じ市内で進学校だという噂の大寺二中の鳥越先生という人だ。教科は国語で、妹は先生から薦められた本を図書館で借りては、夕食ができあがる六時半までにいつも読み終えている。妹はその先生に気に入られているようで、末は博士か大臣か、もしくは作家の端くれにでもなるつもりなのだろう。
 「今日は何の本を読んだの」
 母がいつものように妹に聞くと、今日は珍しく「読んでない」とだけ答えた。いつもはそこからその本にまつわる蘊蓄が始まるので、少しだけ楽しみにしていた私は少しつまらない思いをした。

 「自分で考えた」
  「えりが自分で?」
 「うん」
 これは珍しい展開だ。妹が自分で考えた言葉を発表するなんて。やっぱり末は作家の端くれなのだろうか。
 「お兄ちゃん、子ども産めないでしょ」
  「まぁ、そうだけど」
 「じゃあお兄ちゃんは、『本質的な創造者』じゃないでしょ。だからできるのは、もらったものを分け与えるくらい」
 本質的な創造者? またよく分からない世界に進みだした妹。おそらく何処かの本からの引用のつもりだろうが、言葉に引っ張られ過ぎていて、いまいち妹の伝えたい意味に深みも重みも感じられない。確かに男は子どもを産むことができないけど、でも、女だけでも子どもって産めないだろう。いや、実は産めるのか。いやいやそんなことは無い。クローンや科学技術を抜きにしたら、そんなことはできない。
  「じゃあえりは、その『本質的な創造者』ってのになれるのかい?」
 「なれる、かもしれない。まだ分からない」
 本質的な創造と本質的でない創造とは、いったい何が本質的に違うのか? 妹はあまり口数が多い方ではないから、上手く誘導していかないと、とたんに分からない言葉で責め立てられてしまう。でもこういう一生懸命に言葉を選んで話そうとする妹が好きだ。もちろん愛らしさと、からかいの意味も含めて。
  「ちなみに、えりが創造するものって、どんなもの?」
 「私が創造するのは……たぶん、創造を、創造するもの。だから、たぶん赤ちゃんってことになると思う」
  「ふーん……じゃあ、その赤ちゃんが女の子だったら、その子もまた、創造を創造するものを産むわけだよね? そうすると、いったいいつ、創造はなされるわけ?」
 
 妹は黙ってしまった。少しいじわるな聞き方をしてしまったかもしれない。でも、こうして考えて黙っている妹も、聞かれたら答えを諦めずに考えようとする性格も、結構好きだから、いじわるも止められなくて困る。

 「たぶん、創造って、そういう、繰り返しのことを、言うのかもしれない。たぶん」

 妹はそういうと、また静かにご飯を食べ始めた。こんなに早く妹が答えを出すとは思わず、今度は私が考える番になった。繰り返しが創造……、分からなくもないけれど、妹はその言葉のどの辺りで納得できたのだろうか。繰り返しと創造が同居できる妹の頭の中を覗いてみたいと思った。

 「たぶんだけどね」

 そうとだけ言うと、妹は静かにごちそうさまをして、洗い場に食器を片付けた。私はそれを見ながら、妹が結婚して子どもを育てている姿を想像した。