ブレイク・スリー・イヤーズ

 「break 3 years !」
 そう、軽音楽部の壁には書かれていた。ペンキのような赤い塗料が途切れ途切れ文字を形作り、やけに「!」に力の入った大きな字で。過去、軽音楽部に所属する者は全て、まずその文字からの選別を受けたのであった。あるものはその意味の陳腐さから部を去り、あるものは最初の単語に重きを置き過ぎて停学になった。今ではそんなことも無くなり、軽音楽部は何処にでもあるような音楽好きの部へと姿を変えていった。部屋には幾つもバンドのポスターが貼られ、部室用の棚には流行のCDから往年の名盤レコードまで世代を超えて受け継がれていた。もはや入室時にその文字の意味を考える生徒は少なく、インテリアの一部とされていた。それはそうである、この国は表面的には平和であったからだ。
 荒木倫子はそんな時代に生まれ、そんな平和に育ち、たまたま軽音楽部の部室は風通しが良く(比較的)汚くなかったという理由で入部を決めた。倫子は幼い頃からリズム感が良く音感も良かったため、小中と合唱や吹奏楽系の出し物にはすぐに借り出された。例えその理由が当日の部員の代わりであったとしても倫子は歌や演奏の飲み込みが早かったので、打楽器であれば自分なりにアレンジをして演奏することは彼女にとってとても簡単なことであった。進路を担任の教師と相談したときも、真剣に音楽系の学校への進学を検討したくらいだ。しかし本人は音楽にそれほど興味が無く、むしろそれを一生懸命に練習したり発表する人の方に興味があった。
 倫子の疑問は簡単に言うとこうだ。「どうして音を鳴らしたり声をあげるだけのことに、ここまでこの人達は関心を寄せているのだろうか」。倫子は同じ位の歳の子と同じように精神的な成長の過渡期であったが、人より幾分かその発達が鈍く、ゆるやかな変化であった。本人の自覚の無い所で愛だ恋だと申し込まれ、倫子は返答に困って相手を傷つけてしまうこともしばしば有った。女子の人間関係も仲の良い親友のおかげでなんとか続けて来られたが、心の休まるのはクラスでおとなしい男の子と「何かの仕事」という理由で一緒にいる時だった。
 「荒木さんって、怒った所みたことないよね」とおとなしい男の子は、箒で黒板の下のチョークの粉を掃きながら言った。倫子は折れたチョークと長いチョークを選別している最中で、どうしてか長い方のチョークを短いチョークの箱に仕舞ってしまった。
 「怒ったことぐらい、昔はあるよ」倫子はすぐにそう答えた。しかしその時に思い浮かんだのは思い出の中で怒っている自分では無く、通学路にある「夜道注意」の看板の怖い男の顔であった。
 「どんなことで怒るの?」おとなしい男の子はまるで興味の無いそぶりで床を見つめながら言った。倫子はこの答えを言う意味があるのかどうか一瞬迷い、おとなしい男の子が自分を振り返ったのを見て返事を待っているのだと分かった。しかし、怒る理由とはなんだろうか?苛立つことはあるけれど、怒る相手がいないことの方が多い。どうしておろしたての服を着たい日に雨が降るのかとか、自分の部屋で足の小指だけを角にぶつけて痛がったり、どうしようもないことに関しては苛立つ。しかしそこに敵対する相手がいないのは、怒っているとは言えないのではないか。倫子はそう感覚的に理解しているのだが、それを理性的に言葉にできる能力は未発達で、結局おとなしい男の子に「なんとなくの理由で」としばし相手に考えさせるような答えをしてしまった。

 倫子は掃除を終えて、またねとおとなしい男の子と挨拶をしてから、ブラブラと一人で校内を歩き始めた。校舎に残っている生徒はほとんどおらず、大半は部活で校庭で汗を流すか、駅前でのしばしの交遊を楽しむ者達のどちらかだった。倫子はこの静けさが満ちている時間の校舎を「回復期」という時間帯と名付け、生徒も先生も職員も誰も見ていない所で少し欠けた壁や歪んだコンクリートの校舎が修復される姿を想像した。一日の間の短い範囲の時間にだけそれは許され、かつ誰にも知られてはいけないという条件付きで「回復期」が訪れる。私は悪いことをしているかもな、「回復期」を気まぐれで邪魔しているのだから、と倫子は考えそろそろ帰ろうとした。その時、とてつもない轟音が校内に響いた。

 倫子が一度も聴いたことが無いと、はっきり言える轟音。とてつもない質量と濃度の音の波。倫子は全身に高水圧シャワーを浴びせられたように鳥肌を足先まで立たせた。しかし今はもう、再び静かな「回復期」が校舎に訪れている。今の轟音の正体を知りたい、そう思った倫子は周囲に今の轟音を確認し合う相手もいないので、倫子はその轟音が本物の体験であることを確かめるため、足を校舎の奥へと向けた。校舎の奥にやたらと電源コードが扉から伸びている部屋があった。その部屋は実習にも教室にも使われなくなった部屋で、物置として文化祭や卒業式の装飾品が仕舞われている教室であった。電源コードが集まって一本の道を示すようにその部屋の入り口に倫子は立った。心地よい風が教室から廊下へと吹き抜け、窓の向こうの緑木を背景に一人の男子生徒がベースを抱えている姿が見える。その男子生徒の名は菊間洋平と良い、これから倫子の運命をかき回す犯人であった。同時に眼に入った「break 3 years !」、陽平を象徴する一つの答えのように、その落書きは倫子の脳に深く刻まれた。
 これが倫子と陽平と、「break 3 years !」の最初の出会いである。