脚本家は汚れなければならない。

 脚本家が主人公を創る。それには自分と同じように主人公を考えなければならないと思う。
 自分と同じように彼女(彼)にも好きなものがあって、大切にしたいものがあって、苦しいことはどんなことか知っていて、何かを失うのを恐れていて、でも希望を何処かに見いだそうとしたり、そして失敗したり、人を憎んだりするのだと思う。人だって殺すし、簡単に差別するし、自分の責任で誰かが死んでも忘れて見捨てるような生き方を選ぶ。罪の意識は消えないけど、何気ない瞬間は罪なんてすっかり忘れてあくびをする。水が無ければ奪い合い、死体を喰ってでも生き延びようとするかもしれない。
 だから、脚本家は、自分の創った世界が、幸せな世界であっても、不幸な世界と思われても、そこに責任を持たなくてはいけない。この創り出した世界は、自分以外の刺激を求める人の為の世界で、脚本家、主にテレビや映画の世界を仕事場にする職業ならば、それを「ケガレ」だとか言って、潔癖な自分を保つべきではない。
 「こんなひどいキャラを考えやがって」「登場人物を駒か何かと思ってるんじゃないか?人間なんだぞ!」と非難されても、それに動じて彼(彼女)の性格や人生を無計画に変えてはいけない。彼らが不幸なのは、彼女らが汚れているのは、全て自分のケガレと同じなんだという責任感と連帯感で、その非難を耐えていかなくてはいけない。それを耐えられないようでは、刺激を与える創作物語は向いていないだろう。諦めた方が良いかもしれない。

 主人公が不幸になる時、それは同じように現実でも脚本家が非難される原因となる。そこに責任をとろうとする覚悟が無ければ、もう書くことを止めた方が良い。というか、そんな人の物語は、不満しか生まないだろう。