飢える心は老いていくか。

 最後には水すら飲めなくなって、僕の意識は更に遠退いていった。
 最初に欲しいと思ったものは、防水性の白い腕時計だった。ダイバーズウォッチと言われる種類の時計で、川や海の浅瀬で濡れても問題無いというのが商品の売りだった。しかし幼い少年の僕にとってはそんなことどうでも良く、白い光沢、フォルム、そしてそれを腕に巻いた自分の姿が全てで、それ以外はどうでも良かった。もちろん値段も。

 社会人になりある程度経験も積み、その頃に欲しくなったのは、自分の会社だった。それまではせいぜい手に入って十数万円の商品ばかり、しかし値段のついたものにはとうに興味は失せていて、値段の決まらないもの、それも人間の心に近いものを確実に手にしたくなった。人間を確実に近い形で手にするには、その生命に近い何かを奪わなくてはならない。合法的にそれを手にするとしたら、それは会社だった。経済活動をコントロールする立場で、時間と場所の選択を奪い、僕は手に入れた。手に入れたつもりだった。

 浅はかな考えの元に進めていた僕の事業は、次第にその身を崩していき、ついには倒産に追い込まれた。既に手に入らないと分かった人の心を、これ以上必要ないと諦めていた僕は、頭のどこかで賭けをしていた。人々は僕の元を離れていき、外からみれば何もかもを失ったように見えただろう。しかし僕の中では違っていた。身体と会社と、どちらが先に崩れるだろうかと考えながら、それを賭けていた。今思うとなんて身勝手な、愚かなことをしたんだろうと思う。そして身体は残り、会社は失い、得たのは自由だと、歪んだ喜びを感じていた。

 身体を壊したのはその後すぐだった。人の世を避けて生きていた僕は、その変化にすぐには気付かなかった。初めは記憶のあやふやな部分があること、そして手足の軽い痺れ、そして心臓がやけに熱くなる症状と続き、最後には意識を失って病院へと運ばれた。

 死へと向かうベッドの上で尚、私は思う。飢えている。私の何かが飢えている。この場で私は何を得るのだろう。何をつかめるのだろう。死ぬことは、失うことか? それとも、安定を得ることか。

 私の心は、既に答えを出している。あとはそれを待つだけ。なんと幸福な瞬間だろう。