読み終えたとき
良い物語ほど、いつも寂しいきもちになる。
もちろん体調や状況によって、その物語が一番だったり一番じゃなかったりするんだろうけれど、
この何とも言えない喪失感は、決まってやってくる。
最初にこの喪失を感じたのは、とても幼い頃のことだ。
映画「フェノミナン」のラストシーンだった。
不思議な力を持った主人公を、仲間や町の住人は恐れて避けていった。離れていった。
どう接したら良いのか分からなかったのだ。簡単な答えに、ただ、手が届かなかった。
彼は死んでしまう。特別なことは無く、ただ静かだった。
彼は愛する人のベットの中で、息を引き取った。
その年の主人公の誕生日に、BARでパーティーが開かれた。
映画のオープニングと同じように、ただ彼がいないことを除いて、彼の為のパーティー。
バーカウンターに飾られる主人公の写真。
ビデオを借りて家族で見ながら自分一人だけ号泣した。
分けも分からず涙が止まらなくて、止められなくて恥ずかしくて自室へ直行した。
まくらに顔をうずめながら泣いた。鼻水もいっぱいでたけど泣いた。
映画の中の仲間を思って泣いた。映画の中の主人公を思って泣いた。
自分がもし死んでしまっても、誰かの想い出に居させて欲しいって、泣いた。
泣き過ぎて汚れたまくらに、心の中でごめんって言った。
*
宝物のような想い出も、今考えれば汚く見えてきてしまう。
引っ越しが多くて友達付き合いが苦手だった自分なら、
仲間に支えられている主人公に、どっぷりはまるのも仕方なかったと思う。
僕が見ていたのはジョン・トラボルタでは無いし、
彼の死に自分を重ねて涙を流す事で、無意識に何かを発散させていたのかも。
子供の僕は決して純粋ではなかったと思うんだ。
でも僕は、これが物語に向けて流された涙で良かったとも思う。
自分が誰かの為に涙を流していても、やっぱり何処かで自分を否定している。
涙が誰の為かって? そんなのどうでもいいことだ!
もう飽きるほど考えて、答えがどうこうよりも、
目の前の誰かが少しでも気を楽にできれば、それでいいのだと思う。けど、
いつまで経っても、人前で涙を流す自分が嫌いだ。
誰からも罰することができないと分かっていて、罪を重ねている気がするんだ。
涙は簡単に流しちゃいけないのにね、どうしてそんなことをするんだい、と。
*
物語の完結した時の、もう戻れない喪失感は信じられる。
この気持ちは本物だと。この物語は今の自分なんだなと。
僕の為だけの涙だと。