読み終えたとき

良い物語ほど、いつも寂しいきもちになる。
もちろん体調や状況によって、その物語が一番だったり一番じゃなかったりするんだろうけれど、
この何とも言えない喪失感は、決まってやってくる。

最初にこの喪失を感じたのは、とても幼い頃のことだ。
映画「フェノミナン」のラストシーンだった。

不思議な力を持った主人公を、仲間や町の住人は恐れて避けていった。離れていった。
どう接したら良いのか分からなかったのだ。簡単な答えに、ただ、手が届かなかった。
彼は死んでしまう。特別なことは無く、ただ静かだった。
彼は愛する人のベットの中で、息を引き取った。

その年の主人公の誕生日に、BARでパーティーが開かれた。
映画のオープニングと同じように、ただ彼がいないことを除いて、彼の為のパーティー
バーカウンターに飾られる主人公の写真。

ビデオを借りて家族で見ながら自分一人だけ号泣した。
分けも分からず涙が止まらなくて、止められなくて恥ずかしくて自室へ直行した。
まくらに顔をうずめながら泣いた。鼻水もいっぱいでたけど泣いた。
映画の中の仲間を思って泣いた。映画の中の主人公を思って泣いた。
自分がもし死んでしまっても、誰かの想い出に居させて欲しいって、泣いた。
泣き過ぎて汚れたまくらに、心の中でごめんって言った。

宝物のような想い出も、今考えれば汚く見えてきてしまう。
引っ越しが多くて友達付き合いが苦手だった自分なら、
仲間に支えられている主人公に、どっぷりはまるのも仕方なかったと思う。
僕が見ていたのはジョン・トラボルタでは無いし、
彼の死に自分を重ねて涙を流す事で、無意識に何かを発散させていたのかも。
子供の僕は決して純粋ではなかったと思うんだ。
でも僕は、これが物語に向けて流された涙で良かったとも思う。

自分が誰かの為に涙を流していても、やっぱり何処かで自分を否定している。
涙が誰の為かって? そんなのどうでもいいことだ!
もう飽きるほど考えて、答えがどうこうよりも、
目の前の誰かが少しでも気を楽にできれば、それでいいのだと思う。けど、
いつまで経っても、人前で涙を流す自分が嫌いだ。

誰からも罰することができないと分かっていて、罪を重ねている気がするんだ。
涙は簡単に流しちゃいけないのにね、どうしてそんなことをするんだい、と。

物語の完結した時の、もう戻れない喪失感は信じられる。
この気持ちは本物だと。この物語は今の自分なんだなと。
僕の為だけの涙だと。