駆け足の残る雪の朝

 兄が家を出た。
 書きかけの年賀状も、読みかけのビジネス書も経済誌も、長い付き合いになる彼女からの電話が鳴るのも放り出して、全てを切り離して、兄は暗い夜の中に消えた。
 東京でこの冬初めての雪が降った、静かで冷たい夜のことだった。
 小さい頃から、私にとって自慢の兄だった。人当たりがよく、明るく、よく笑う。走ることが好きで、無駄な脂肪は何処にも無く、腕や足の筋が張りつめた弓のようだった。中学高校と都の大会や地域の大会で幾つものメダルを貰う優秀な選手だったが、家に帰れば子どものように夢中でごはんを食べる。それがおかしかった。可愛くて、好きだった。

 ある時、ゴールした後の兄の呼吸を見ていると、少しずつ、少しずつ、自分の呼吸が徐々に重なっていくのに気付いた。そうして、なぜだか急に、喉の奥の方が、少しずつ、少しずつ、苦しくなっていった。兄の荒い息が、少しずつ、少しずつ、整っていく。私は少しずつ、少しずつ、苦しくなっていく。ただ兄を見ているだけなのに、私はどうやっても足りない酸素を取り込もうと必死になって、不器用な呼吸を繰り返さなければならなかった。

 それは同時に、心地良くもあった。私の呼吸が兄と何らかの繋がりを持ち始めたことに気付いて、嬉しくなった。いつも空いていた小さな隙間に、兄の呼吸と共にそこへ、何かが入り込むような感覚があったのだ。過不足無く心が満ちて、緩やかな幸福を感じていた。幼かった私はその意味がすぐには分からず、兄を見ていてもその答えを出せずに、次第に恥ずかしくなり、季節が移るごとに、兄と少しずつ、少しずつ、距離を置くようになった。

 今、兄の足跡が残る雪の道を眺めている。
 兄はまた何処かへ走っていってしまった。
 帰ってくるだろうか。またゴールした後に、息を整えて、笑顔を見せてくれるのだろうか。
 私はその時を待とうと思う。今はもう、兄の呼吸が整うのを、静かに待つことができる。