ニュートラルな心境。

 初めて下北沢へ。
 案外近いことに驚く。そんでもって、京王線が綺麗で、関係無いけど嬉しくなった。
 入り組んだ街の中に幾つものお店があって、気温も暖かくて、ゆっくり歩いた。

 幾つかのお店に入った。
 気になったのは、五十音揃った活版印刷のようなスタンプと、時計の内部構造を取り出して、指輪にしたもの。
 教材や化学器具の売っているお店もあって、楽しかった。
 お互いに、温度計を入れるプラスチックのケースを、懐かしいねぇと、年の差も感じずに言い合う。

 お目当てのお好み焼き屋さんがあったのだけど、火曜日はお休み。少し残念だ。
 近くでクレープを買い、暖かい空気の中、外のベンチで話す。

 無性に、今、この時間を写真に撮りたいなぁと思った。
 撮った所で、撮らなかった所で、残るものは残るし、そうでないものはそうでないのだ。分かってる。
 いくらリクエストされた料理を作っても、食べ終えてもらったら、それは身体や熱に変換されて、残らない。見えなくなる。
 だから、写真に撮りたいんだなぁと、思うのだろうか。どうだろうか。

 例えば、誕生日のプレゼントに何をあげよう?と考える時に、なんとなく、日用品や消耗品を外して考える。
 結局、日用品だったり消耗品だったりしても、今この人の辿ってきた文脈に沿ったものを選んでいる。


 なんとか、残らない、ということに抵抗しようと、少しでも、記憶に残ろうと必死だ。
 けれど同時に、残らなかったら、それはそれでなるようになるだけなんだなと、思ってしまう。
 そうやって、いつまでも、執着の芽は、育たない。

 何が何処に落ち着いていくのか、やっぱり分からないし、
 何処に落ち着いていっても、それはそれで、たぶん正解だと受け入れるだろう。

 大人になるって、今出来ることを、今やろうとすることの、連続だと、思い込みたい。
 そうやって、今の自分の行動を、肯定して進んでいきたいのだと思う。
 やれることを、やるだけさ。