空気人形

 観てきました。空気人形。
 まだの人の為、隠します。とりあえず、ぺ・ドゥナは良いキャスティング。
 あと、思い付くままに書くので、あまり良い感想では無いかもしれません。
 あしからず。
 まずはあらすじを。

レトロなアパートで秀雄(板尾創路)と暮らす空気人形(ペ・ドゥナ)に、ある日思いがけずに心が宿ってしまう。人形は持ち主が仕事に出かけるといそいそと身支度を整え、一人で街歩きを楽しむようになる。やがて彼女はレンタルビデオ店で働く純一(ARATA)にひそかな恋心を抱き、自分も彼と同じ店でアルバイトをすることに決めるが……。

 結論から言うと、期待し過ぎたかなぁ……。
 命を持たないはずの空気人形に、命が宿る。空を知り、風を知り、新しい言葉を知る。そして恋をする。けれど彼女は家に戻らねばならない。帰った部屋では、ものも言わず息もしない、ただの性欲処理の人形。命を持つが故のジレンマ。
 もうその設定だけで私は舞い上がってしまったらしい。予告編を観て、音楽を聞いて、頭の中で膨らんだストーリーとは、少し違う世界だったなと、映画を見終えた今、思う。
 この物語は、何処に中心があったのだろう?
 その中心は、「こころ」だったのか、「代用品」だったのか、「いのち」だったのか。その全てが曖昧であることで良い映画もあるけれど、私にはこの映画の曖昧さが納得できるものに感じられなかった。命を持った彼女は、何を得たのだろう? 見終えてから、悲しくなってしまった。それは気持ちのよい悲しみでは無くて、捨てられた空気人形達の墓場を見ているように、たぶん私もこの映画を捨ててしまうだろうな、というゆるやかな諦めに近い。
 命を持つことは不幸だろうか? こころを持つことは苦しいだろうか? 嘘を、つかなきゃだめ?
 幾つも良い台詞や良いシーンがあるのに、どれも際立っているようには見えない。きっと生かし方があると思うんだ。彼女の「温度」「へその空気穴」「影が薄いこと」「身体に残る接合したライン」「自分で空気入れを捨てること」「枯れたタンポポを、可愛そうと思うこと」「夢を見ること」「手が冷たい人は、心が暖かい」……もう、もったいない。どれかを中心に世界を色付けていくことも出来たんじゃないかな。何か理由や意図があったのかな。うーん。
 *
 東京で暮らす人というのは、今もこの映画の世界の人々のように、空虚で埋め合わせることに必死な人たちなのかな。
 そういう人ももちろんいるだろうけれど、もう私には、リアルに感じられなかった。
 今年も9月は仕事場の近くでお祭りがあって、幾つも神輿が出て賑わった。子ども達は浴衣を来たり綿飴を食べたり、そうして季節の変わり目を感じた。ふと降りた大久保の駅では違う国の言葉が聞こえてくる。それぞれのコミュニティがこの街には集まっていて、それぞれの夜を熱い言葉を交わして盛り上げていく。そうしている内に男の子は成長する。今まで弱々しくて人に甘えていた男の子が、祖父の死をきっかけに眼差しが変わっていることに気付く。少しだけ自分に厳しくなったみたい。彼の中での変化が、良い成長の兆しであることを願う。
 私は変化に飲み込まれず、逆に飲み込もうとして、したたかにしぶとく生きている人を知っている。それを美しいと思う。

 空気人形は、何の為に傷ついたのか。作り手は、何の為に傷つけたのか。どうして、命を持たせた?何を見せたい?何を望んだの? 私は物語の中で、その答えに迷ってしまった。岩松了さんがのぞみを性の対象として扱い始めてから、悩んでしまった。ここまで続いてきた日常は、何処で間違ってきてしまったんだろう?
 素晴らしい演技をしていたぺ・ドゥナ。彼女の演技、というか存在は、見事に合致していたよ。物語の要素としても視覚的な効果としても。映画を通して彼女を好きになったもの。だから、どうして今、このテーマを選んだのかということ、それを問いたい。何処に向かおうとしていたのか、それを知りたい。
 こころを持った空気人形は、たとえ誰かの代わりだとしても、自分の価値が性欲に結びついているとしても、その生は、感情は、命は、思い出は意味のあるものだ。彼女の見た世界の中にひとつでも美しいものがあったのなら、それを理解する人間も同じように一人は居るんじゃないのか。どうして純一とのぞみは、お互いに歩み寄って愛し合えなかったのだろう。空気を抜かれ、命を削られ、そうして互いに等しくなって、いのちあるままに朝を迎えることは、いけないことか? 人と人形は違うかもしれない。人形としての純粋さが、あの結末を導いたとしても、共に過ごした時間を観客は理解しているし受け止めている。彼と彼女に共通の体験があることは、二人が人間と人形として壁を抱えていることと同じだけ確かな事実だろうに。

 生まれたことには意味なんてない。私はそう思う。
 だからこそ、意味を見出すんだよ。生きていくということは、私にもあなたにも、等しくとんでもなく素晴らしい価値があると、大声で優しく歌い続けることなんだよ。

 *
 だからいずれ捨てられてしまう空気人形だとしても、そこには命の実感を吹き込むんだよ。そういう物語を、私は感じたいんだ。
 現実にも、この世界にも、私はまだまだ期待している。物語の方から、勝手に諦めないでよ、悲観的に自分の中だけで完結されても困るよ、と思いました。最後のシーンは、決してハッピーなバースデーなんかじゃない。のぞみのいのちを、あんな演出で誤摩化さないで欲しかった。
 長文失礼しました。