おそらくのきおく

 いつからだろう。記憶にしがみつかなくなったのは。
 お気に入りの赤いミキサーを壊した時? 飼っていた猫がバイクに轢かれてしまった時? 校庭の鉄棒で遊んでいて左手をポキっと折った時?

 思い出を抱きしめていられないのを、子供心に諦めたわけじゃない。もっと無感覚な感傷なんてこれっぽっちも無い、パッと、パッと手を離したような、そんなやり方で記憶とさよならし続けて、今こうしている。
 久々に立ち寄った思い出の場所は、たいてい何処かのお店が閉店していたり、お金を電話一本で貸してくれるようなチラシやら、そんなものばかり増えて、何処も変わらないなぁと思う。東京も地元も同じで、静かに広まっている無責任とかどうにかしてくれよとかいう気持ちが、何かの姿で現れていくのを見る。どんなに思い出が層を成すように過ごした土地も、離れた頃から着実に、思い出と私とは静かに手を離し続けているんだなぁと知る。

 亡くしたり壊したり失ったり、そういうひとつひとつを忘れた訳じゃないんだけど、こうして記憶と私には距離がちゃんとあって。その悲しみを知るまでの自分と、知った後の私は、まるで分身が増えるみたいに残像を残してブレて、別れて。
 ずんずん進んでいく未来も、こつこつ歩いていく先も、枝分かれしてどんどん離れていく。それを、向こうもこっちも歩きながら見つめているような、そういう私を、全体を俯瞰したような私が見ている。
 

 そんなことを重ねていった私が、何かを書き残そうとするのは、なんというか皮肉。
 でも無意識の自分が、きっと寂しがっているんだなんて思わない。
 なんかを書こうとする行為は、もう既に思い出なんかとは関係無いと、私は思う。
 だから書けるんだと思う。
 ひとつひとつの言葉に意味なんか無い。現実に比べれば。
 だから私は書くんだと思う。おそらく。