アニー・ホールを、大好きだと言った男の子。

 アニー・ホールを観た。

 人生は全て「悲惨であるか、惨めであるかのどちらか」と語るコメディアンのアルビー・シンガー。彼は二度の結婚と離婚を経て、アニー・ホールという女性と出会う。二人で暮らした数年間、確かに君は僕の人生に入り込んだ。でも今は別々の人生を歩んでいる。
 どうして、アニーと別れてしまったんだろう?

 大学1年の頃、私は大阪から来た男の子と友達になった。この映画は、彼が一番好きだと言っていた映画だ。主人公のアルビーに、ウディ・アレンに、彼が重なる。
 明るくて品が良くて、人付き合いが上手くて、話が上手くて彼の周りにはいつも人が集まっていた。小柄でいつもアロハを着ていた。いつも帽子とサングラスをかけていた。人懐っこい姿をしているのは、彼が他人の眼に対して自覚的だったからだ。彼は一見親しみ易そうであり、同時にとても繊細な内面を持っていた。人の気持ちに触れるのが好きで、そこへ入って行くことが自分で得意だと知っていて、でもそれが、人間同士のあらゆる危険をはらんでいると、ちゃんと理解していたように思う。彼の品の良さはそこから来ている気がした。でもそれは、言葉にしてはいけない気がした。私は彼より、人の気持ちに触れるのが下手で、怖かったからだ。

 どうしてあんなにも大切だった人と、今は離れて暮らしているのだろう。この疑問は、多くの人の中でひっそりと仕舞われていると思う。何が原因でどちらが悪くて、何かがもう少し違っていたら良かったのか。いくら考えても答えは出なくて、それでも明日はまた来るから、私は私自身が静かになるのを待っているしかない。この気持ちは執着なのか、もう取り戻せないことへの哀愁なのか、相手の為なのか私の為なのか、どんどん分からなくなる。分からなくなることが当たり前になって、また少し落ち着いていく。同時に情熱的な私は小さくなっていく。そうしてかなりの時間が過ぎた。私はまた、ひとつ歳を取る。おめでとう、ありがとう。その繰り返しだ。

 こんな私でも、本当に大切だと思えた恋人が、一人いる。今は遠く離れた場所にいるから、たまに電話するくらいしか関わりは無い。
 みっともないとか、笑われても良い。馬鹿な私は、やっぱりその人と話していて楽しいと感じてしまう。自然でいられて、タイミングが似ていて、大切にしているものが似ているのはあの人くらいしか、私は知らない。好きな人は大勢いるけど、必要だったのは、あの人だけだ。でも同時に、もう戻らないことも充分に受け入れている。付き合っていた頃は簡単だったけれど、今は、お互いの関係に名前を付けることができない。でも、こうして確かに私たちは関わっている。何かを得たり、与えたりする関係ではないけれど、こうして生きている。

 「アニー・ホール」の結末は好きだ。二人は元には戻れないけれど、それでも続いていく自分の生活を受け入れている。私も同じだと思った。きちんとけじめを付けたり、区切りをつけたり、私には出来なかった。大人じゃなかった。これからもたぶんそうなんだろう。でも私にとって、その人はとても大切な人だ。その人と過ごした時間も。それは変わらない事実だ。
 そうした想いを抱えて、私はたぶん、また別の誰かを好きになって、別の誰かと暮らしていくのだろう。

 「アニー・ホール」が好きだった関西の男の子とは、大学を中退してからお互いなんとなく連絡を取らなくなった。たまに、人伝いに彼の噂を聞いた。半年くらい前だったろうか、都内のFM放送のDJをしていると聞いた。嬉しかった。携帯には彼のアドレスや番号はあるけれど、それは当時のもので、今通じるかどうかは分からない。
 彼は以前、私と恋人のことを、「お似合いやんなぁ」と言ってくれた。嬉しかった。彼は覚えてないかもしれない。
 良い映画を教えてくれてありがとう。数年かかってやっと観れました。面白かったです。