一般化。

 一般化できない技術や思想を多く持っている人は苦労しているんだろうな。
 例えば仕事を改善する議論をしているとする。できるだけ早く、青、赤、黄色の、☆、□、○を分類して箱につめるとか、そういう類い。幾つか案は出てくるだろう。そしていずれ、これ以上は突き詰められないような最適な仕事の「型」が見えてくるはず。
 でもその箱詰めの仕事が複雑さを増して、例えば物を相手にする仕事から人を相手にするように比重が傾いて行くような場合、ジレンマが生まれる。最良の答えが議論の上では見えて、それが出来れば効果的になると分かっても、やっぱそれできねーや、って大多数が諦める。そうしてそこそこの成果を出せる方法へと落ち着く。
 それは単純に、難しいからだ。
 中には最良の答えを実際に実行できる人が居て、皆でこうやろーよ!とか言うんだけど、それは結構な割合で周囲の賛同を得れずに方法は破棄される。仕事は一人では出来ないから、その人も全体が可能な方法を取らざるを得なくて、吸収されてしまう。結局現状に不満を抱えたまま、でも今以上の技術に大多数は手が届かないまま、モチベーションが下がりそうになる日常をやりすごすような仕事になっていく……
 これは言い過ぎかもしれない。まぁ、そんなことばかりでは無いのだけど。
 仕事が出来る人は、大抵「一般化できない技術や動作への思想」を多く抱えている。それは周囲より記憶できる量が多いとか、勘が鋭いとかそうとしか説明できないこともあるし、物理的な脳の伝達に関わる差だったり筋肉やボディバランス等の身体的優劣だったり、経験によって積み重ねられたものかも。とにかくもう、精神論ではどうしようもなく抑えが効かない。人間の差。直視することも難しいような、きっつい宣告。
 でもそこから学ぶことは、難しくても、やっぱり楽しい。無理矢理にでもそうやって飲み込むことにしている。
 
 
 仕事や表現や、創作やその他もろもろの活動について、ブレイクスルーに達するのはそういう「一般化できない部分」なのだと思う。面白く暮らしていくヒントはそこにあって、感動する仕事はその部分から生まれている。多くの技術や思想が、こうして今までにどれほど失われてしまったんだろう。それを葬ったのは私のような人間かもしれない。彼らのような「技術や思想」は声を出して泣かないから、静かでおとなしいから、それを良い事に私は。
 彼らを葬送する、その資格は私にはまだ無い。もっとできることがある。していかなくてはいけないことがある。