容疑者Xの献身

 またしても今更ながら……「容疑者Xの献身」を観ましたよ。
 公開当時はなかなか忙しいのもあり、観に行けてませんでした。ドラマは何話かを飛ばして見ており、短編は未読です。長編小説の本作だけは直木賞を受賞した頃に一度読んでいます。幸福なことに、これが私にとって東野圭吾作品の入り口でした。
 小説はラストの石神の描写がとても好きで、映画ではどうなるんだろうと思ってましたけれど、納得。そして身震い。堤真一さんすごいですね。とても良かったです。ともすれば簡単にシラケてしまう、ともすれば重苦し過ぎるテーマを、丁寧な演技で観客を引っ張りつつ引き込みつつ、きちんと最後まで租借させる演技。ドラマから連動したエンタメ映画ですし、やっぱり福山雅治カッコいいし見栄えするしこんなセンセイ居たらいいよねーって観ていてそれでもう全部OKなんですけれど、


 献身とは?


 と観終えてから無意識に考えてしまいました。
 それは様々なシーンや俳優達を観ながら、謎を追いながら、花岡親娘を見つめながら、湯川の推理に共に苦しみながら、彼らの過ごした12月の短い日々を感じながら、全てを通して石神の気持ちを追いながら観ていたからなのでしょうね。


 石神の手にした「献身」は、誰に否定されるでもなく、静かに、穏やかに、彼の心の中だけで叶うものでした。それを裁くのも、それを分かち合おうとするのも、そこに真相という形を求めるのも、全て同じ「質」から成るものでした。彼らに起きた一連の出来事に対して、全ての人がきちんとした事実関係を知り、同時に慈愛の心を持つ事ができるとしたら………それは不可能ですが、「献身」はただ「献身」として認められたでしょうね。それと同時に罪は罪としてきちんと裁かれたでしょう。それでも、献身性そのものは別に扱うことが出来たんじゃないかと。


 こうして知的ゲームなミステリーとして、物語をいわゆる神の視点(様々な登場人物からなる、複合的な視点)から描いて、多くの人の関心をひく「殺人」という刺激を用いなければ、我々は「献身的精神」を感じ取ることができないのかもしれませんね。でも、もともと「献身」という行為は、人間にとって奇妙なものなのかもしれません。利己的の極である「自分の都合の為の殺人」と、利他的の極みとして表裏の関係なのかも。
 人はもともと自分を愛するようにできているのでしょうか。ならば、どうして他人を愛するようになるのでしょうか。自分の意思で相手を殺して、自分の意志で相手に尽くして。それはやはり、同じ事なのかもしれませんね。うーん。


 おもしろかったです。ぜひ原作から入って映画へどうぞ。

容疑者Xの献身

容疑者Xの献身