ポジとネガに等しく価値はあるのか。

 なんとなく思い付いたので、メモ。

 
 ネガティブな発言も、ポジティブな発言も、どちらも価値があると思うんだ。
 だから私はどっちにも共感する。そしてたまにスターをつける。
 どちらも個人的な「心の充足」みたいなものを満たすことができるから。
 相手の気持ちを知って、自分を知って、意味や価値そのものを考えてみる経験。それを得られる。


 でも、実際に人と関わり合って暮らしていくなら断然ポジの方が良い。これは間違いないと思う。
 ネガでもポジでも「心の充足」は満たせると思う。一人の時間や、自分の価値や生きる意味に懐疑的になって、内省するのはいいこと。でも、人の集まる所に向かい、それが現実に存在する人間の集団なら、自分の基本性質がポジでないと上手く機能しないと思う。上手く溶け込めないし、関われない。
 ポジで集まった現実的な集団は、「心の充足」と一緒に「人生の充足」を求めている集団だからだ。「人生の充足」は「人と関わり合う経験値」みたいなもので、集団へ自分が入るということは、それを求めることとイコールになっちゃう。


 現代ではもう、「人生の充足」を無視して生きていくのは結構困難。というか無理なんじゃないかな。
 どうやったって、私たちはお腹が空いてしまうし、暮らす場所を見つけなきゃいけない。何処へ向かうにも、現実的な肉体があるんだから。それを維持するには、集団と関わらない限りは、無理。一人では生きていけないし、一人だけで生きていくことを困難にさせている社会形態だから。
  


 物語がハッピーでもアンハッピーでも感動するのは、それが個人の胸の内で広げられる物語だからだ。
 ブログやネットの発言で、不安や悩みや弱気な発言になんとなく引っかかるのもそう。これは個人的な心の中の遣り取りであって、現実とは別。そこには距離がある。
 心の中ではネガでもポジでも、満足感が同等の強さで得られる。だからどちらにもスターをつける。


 でも救われない物語のようなことが現実で起きたら、もちろん苦しい。アンハッピーなものに触れ過ぎると、心が傷ついたり壊れたりして、集団へ戻れなくなる。
 だからって現実に悪影響を及ぼすからアンハッピーな物語は避けるべきとは思わない。規制したり忘れたりしても、やっぱり人はいつか死ぬ。
 現実世界での活力や意欲の為に物語やポジな言葉を享受するのは、個人の信条レベルでしかなくて、それは「趣味」じゃないかなと思う。
 でもあんまり大声では言えないよね、ネガなものが大好きだとか、ネガとポジの両方の価値を認めるべきだとか。そもそもそういう発言をするのに、現実世界の集団は向いていないんだと思う。たまに言っても受け入れてもらえる、親密さを築かないと、集団へ不和を呼び込んじゃう。


 この辺りを混同すると、めんどくさいことになる。