本当の意味で「富む」ということ

 朝、起きたのは9時。
 NHKでやっていた「ハゲタカ」を見る。確かこのドラマの演出が好評だとか聞いたなぁと注意して観る。階段で向かい合う柴田恭兵大森南朋。段の上と下と、太陽に向かう顔と背を向ける顔。このシーン書いていて楽しかったろうなぁ、でもあざといって思って止めちゃいそうだなぁとか思う。宇崎竜童のお葬式のシーンでは親族関係者のひそひそ話が柴田恭兵に聞こえてしまう描写があって、少し気になる。でもこれは演出の丁寧さであって、余計な部分ではないのかもなぁと、思い返すと感じる。とかとか視聴者として勝手に想像しながら楽しく観ました。面白かったです。明日は予定があって観られないけれど……残念。
 ほぼ日では「とんでもない、原丈人さん。」を以前から読んでいて。この人の連載を読む度に、人が想像できることは実現する、という言葉を思う。できないと分かっていること、つまり理由が明確になれば、それは解決へと一つ進んだ訳なんだなぁと、思い出す。人ができないことの本質って、原因があるからじゃなくて、単に「嫌い」なんだよね。生理的にとか、信条としてとか。めんどくさいとか汚いとか格好悪いとかね。それは決して悪いことでは無いと思う。ただ、自分の負の感情に目を背けているのは、なんだか悪いことのような気がする。
 できないことを怖がらず、更に、できることを喜べたら、こんなにも楽しそうなんだなぁ。
 椎名林檎が新しくシングルとアルバムを出すらしい。彼女のアルバムは三つとも聴き込んだし今も継続中なのでとっても嬉しい。「ありあまる富」のジャケットが彼女の鎖骨の写真だったりして、とってもドキドキする。たぶんあの写真は、林檎さんの心の一部に触れてしまう写真のような気がして。それを撮らせて下さいと言った人が居たのか本人が言ったのか分からないけれど、その決定に1エピソードありそう。広告やアートや世間から注がれる眼の中に、ストーリーの中に、林檎さん自身が「テーマ」のように扱われることを許しているのかと思うと、ホント凄い人ねと思う。更にひとりでドキドキする。歌詞の中の「君」「僕ら」「彼ら」の選び方とか、今の時代についてとか、アマゾンにそんな考察が載っていて、あーそうなのかなぁなるほどなぁとか思う。


 眼から耳から入ってくる雑多な情報の中にも、確実に「何か」が入ってきている。新しい「何か」。
 たぶんその「何か」は、「富」や「富む」という言葉にとても近いような気がする。「幸福論」や「主義」の理念や精神の向かう先では無くて、それでは半分で、「マネー」「価値」「貧富」という現実や経済的に力を持ち過ぎた言葉でも無くて、それでも半分で。
 これからはあらゆる表現の裏や中に、これらの「感覚」が入り込んでくる気がする。
 それは声高に皆に伝染させようとすると鬱陶しくて、でも穏やかに緩やかに伝えようとしていた以前では、効果が無かったことを証明されているもの。
 手に出来ないことがその「何か」の「何か」たる所以のような気もする。だから、みんなすぐに物質的なものでその「何か」を代用しようとするだろう。また。
 そして失敗しそうになって、また止める。止められないかも。失敗しちゃうかも。
 この今の貴重な時期をどう捉えるか。
 どの業界に居ようと、年齢が幾つであろうと、「何か」を逃すと取り返しがつかない。
 物書きとして、何が出来るんだろう。そればかり今は考えている。
 胸がざわざわする。眠れない。そればかり考えている。
 深夜1時を過ぎて。