波間で技術を保つためのこと。

 人を好きになること。創作をすること。人生について考えること。
 全て繋がっているように感じる……というか、それは当たり前か。
 なんだかんだ言って、私には好きな人が居た。結構真剣に、でも自然に、大切な人だと思えた。それがたまたま、私の中で「恋人」とも「親友」とも定義ができなくて、かつ今選べる言葉の内のどれかで縛ってしまうと、言葉の持つ「意味」や「世界」に気持ちが引きずられてしまうような気がして、沈黙して、でもお酒は一緒に呑んだりワインを買っていったりして、沢山話したりして、でも、やっぱり大事な部分は上手く伝えてあげられなかった。
 もし求められるままに受け入れて、相手の望む自分になろうとして、それを相手も気に入ってくれていたら、私はこのまま進んでいたのだろう。何も気付かずに、身に受ける安心や幸福感を抱えたまま。鈍感になって。でもその鈍感な自分も好きになれただろう。たぶん……。
 今の私はその私ではない。相手の望む自分になることなんて、まっぴらだ。そんな相手を好きになってしまうのなら、こっちから願い下げてしまう。私たちはたまたま近づいて、たまたまお互いを必要として、その偶然を結構気に入っていただけだ。
 私たちはなにも、ひとつになろうとしたわけじゃないもの。
 私があなたのことをどう解釈していいか分からないうちに、距離が出来て、なんとなく疎遠になった。でも、こういうことは、今までだってたくさんあった。親しい人が離れていくのは、確かに不安だし怖い。けど、昔よりも不安じゃないし怖く無いのも事実だ。
 落ち着かないのは最初の内だけ。それは「慣れ」が解決する。その内に今まで相手に向けていたエネルギーを他に回すようになって、縁や巡り合わせの一つに、あなたを含めてまた暮らしていくことになる。
 生きていると、また大勢の人と会うようになる。その内に、また大切な人が出来る気がする。大切に思ってくれる人もいる気がする。誰一人としてあなたの代わりではないのだけれど、今までだって瞬間瞬間で、あなたは変わっていたんだから。もともと理想や願望を将来出会うかもしれない人に重ねる気はないから。だから、これからのことについて、あんまり不安は無い。過去への欲も執着も、やっぱり薄い。


 私の場合いつも、失恋とも別れとも言いにくいけれど、将来それが自分にどう影響するかもいつも分からないけれど、大事なことは血になり肉になって、湧いてくる言葉に表れるのだと思います。それが好きとか嫌いとか、そういう次元の話でも無く、嬉しいとか悲しいとかでもなくて。それを無理に何かで消化しようとかしなくても良いんだと思います。
 今は陳腐な言葉を創ることでしか、自分を何かの媒体に乗せていくことが出来ない。それは日々の仕事でもそう。夕飯に何を食べようかと選ぶことにも、出てきているのだと思う。
 でもこういう時期は、やっぱりいつか抜ける。その先が必ずしも良いとは言わないけれど、抜けることはもう分かっている。
 時間を大切だと思うのなら、描くことを止めてはいけない。行動を抑えてはいけない。技術は確実に衰えていくのだから。