強くなることは、もう弱くなれないということ。

 真実とか到達点とか、目的意識とか向上心とか、よりよいにんげん、とか。
 そんなものを目指すのは、あんまりよろしくない気がしてきた。



 私たちは歳を取る度に、手が届く世界が広がって、同時に責任を取らなきゃいけなくなる。やっちゃいけないことは増えるし、やってもいいけどリスクを負わなきゃいけないことも、どんどん多くなる。盗んではならない、恨んではならない、殺してはならない、姦淫してはならない。十戒はもう忘れたけど、そんなことよりも、もっと現実は複雑だ。
 一番に欲しいものがあるとしたら、それに身を捧げなくてはならない(でもそれが理想や物ではなく、人ならば妥協も同時に知ること。言葉になってくれない相手の心を読まなくてはいけないし、同時に見え過ぎてしまった心を口にせず黙っておくことも必要。黙っておけないならば、もともと心を探る術を磨いてはならない。)
 もしそれが二つあるとしたら、どちらも大事にしなくてはいけない(でも本当は大事に出来るかどうかよりも、そういうポーズが大事だったりする。葛藤して苦悩して、現状をしばらく維持した後、その結論として何らかのアクションを起こす。それがどちらかを失うようであっても、最初の目的の半分は成功したと思わねばならない。半分失敗しているとは、間違っても思ってはならない)
 


 こんな細々とした経験則なんて、ほんとに必要なのか?
 これは単に、人付き合いに幅が出るだけの話だ。やりとりできる相手が増えるだけ。ただそれだけのテクニック。



 本当にしてはいけないことは、人生の苦悩や苦痛を乗り越え続けること、かもしれない。



 強くなり過ぎてはいけない。ハングリー精神?、よくない。困り事を試練と捉えてはいけない。過去のトラウマを自身の人生の動機にしてはいけない。満たされる恋愛の影に、不幸なバックグラウンドを求めてはいけない。刹那的なセックスを刹那的だという理由で特別視してはいけない。抑制してもいけないし、し過ぎてもいけない。それはただ、二人ともだらしないだけなんだけど。
 たいていの人は、そういうリアルに付いて来れない。テレビや小説なら付いていける。それは、フィクションの世界の「設定」だからだ。もしリアルでそういった苦みや辛さを追っているとしてら、それは何かに取り憑かれているようなものだ。


 
 幸福とか癒しとか安心とかって、もっと何気ないもの。普通のことなんだ。
 書いとかないとたぶん忘れるようなことだし、書いてても忘れる。それでいて忘れても良いようなことなんだ。



 小さい頃から、自分って不幸かも?とか思って生きていると、試練を乗り越える人生を選びがちだ。だって、何も持っていなかった幼い自分に、むしろ足りないものが多過ぎて怖くて苦しかった自分に、それだけがただ一つ残された救いの道だから。強くなること。無いものを、手に入れること。皆もそれを喜ぶ。がんばってるねとか、偉いねとか。そうして少しずつご褒美をくれる。物とか金とか愛とか。でも、人からもらえるものって、一時しのぎの救いにしかならないんだ。
 本当に救われたいなら、自ら求める行為を止めることだ。
 無い自分を無いままに受け入れられず、それで満足してこなかった欲望の火種が、夢や理想という大きな動機の炎に、いつのまにか燃え上がる。もちろん全てが欲望とは呼べないだろうが。しかし、人は走り続けていると、どうして走り始めたのかを忘れるものだ。その内に走っている自分を愛おしく誇らしく思うようになる。最初は誰かから逃げる為に走り出したとしても。走りながら誰かを追い越し、踏みつけ、背後から罵声を浴びても、それでも走っている自分を好きで止められなくなる。走れなくなって絶望に飲み込まれるくらいなら、踏みつけた奴が死のうがどうなろうが知らない。だって見えないもん。ほら、私は前向きだから。



 こういう、成長の思想が、今まで賛美され過ぎたんだ。
 欲望が見えると自分を嫌いになるから、都合良く成長と名付けて隠した。
 でもだんだんと、その隠れたものが暴かれようとしている。


 
 かといって、一度強くなろうとし始めた者は、もう弱くはなれない。
 強さを抑えることも、自身の為の試練になるから。弱くなるという目的に向かって、成長しようとしてしまうから。
 どんどん、「普通」や「何気ない」や「適当」からは離れていく。そこにこそ、あるようでないような、ひと休みできる場所があるのに。



 気付いてしまった。どうしようか。
 強くなりはじめてしまった私たちは、弱い人たちとは、もう分かり合えないのだろうか。