最期の言葉

 赤塚不二夫さんの告別式で、タモリさんが白紙の弔辞を読んだ。
 こういう話にはグッとくるものがある。本当にその人のことを思えば、言葉は自然に出てくるものだ。話しておきたいことは多かったかもしれないが、語るべきことはほんの幾つかの言葉で足りるものだ。全てが終わっているその瞬間はなんてのは、ほんの少しでいい。
 母の葬式のことだ。弔辞を父が読むことになっていたが、父は直前までひとり部屋にこもっていた。話しかけても「うん」とか「あぁ」としか答えず、ただ顔を見せないようにだけして、しゃがみ込んで弔辞の文を書いていた。部屋には鼻をすする音だけがしていて、弔辞に下書きが点で濡れていて、それまで母の死にリアリティを感じられなかった自分に、一つの現実を見せつけられたような気がした。
 結局父は書き上げた弔辞を読みながら、だんだん涙に声が負けていき、最後には弔辞を見ずに思い付いた言葉を幾つか話して、母への最期の言葉にした。

 話しておきたかったこと、いなくなった後だから話せること、どちらも胸の中でいっぱいになるが、話せても、話せなくても、全ては修まるべきところに修まる。