「この選択が間違っているかどうか」

 最近、判断に迷う人を多く見る。
 判断に迷った人に、よく、「この選択が間違っているかどうか」を聞かれる。もちろん言葉の通り判断して欲しい場合もあるのだけれど、その多くは、暗に(合ってますよね?)や(あなたの選択に従いたいと思ってます)など、答える意味の無い質問ばかりだ。
 元々人はきっと、ごく普通の当たり前な言葉に深い意味を持たせて話すものなのだと思う。ごめんなさいも、ありがとうも、お久しぶりですもお疲れさまも。そういう人の「心」の感触みたいなものを、出来るだけ傷つかない形で確かめようとしている。感触を得て安心しようとしているのだ。だから、「これで合ってますよね?」と聞かれて、その裏側が分かった所で、いつもしていることの延長だと思えば、そのこと自体にひっかかる必要は無い。でも、ひっかかる。

 この選択が間違っているかどうかというのも、この選択に同意して欲しいという気持ちも、選択権を相手に委ねるのも、全てに共通して足りないのだ。それは判断する為の、自分の中の自分だけの基準が。自分が生きている上で最終的な目標にしている、「ある目的」にその行為が道のように続いているかどうかが、分かっていないのだ。その道にさえ続いていれば、例え相手が間違っていると言おうとも、その結果が間違っていようとも、その選択に意味はあるし、価値がある。自然と的外れな選択はしないようになるし、その人の選択が必要とされる環境へと、進んでいくだろう。

 全ての問題と、全ての答えは、重複して繋がらない。その時に答えだ!と思うことしか、答えにならない。なんとも思わなかったことは、答えでも問題でも、どちらでもない。嫌でも生きていれば何かを選択し続けるわけだから、選択する一つ一つは、自分自身を一つ一つ形作ることになる。遠からず、近からず、選択が自分を作るのは、もうどうしようもなく確実。小さなことも大きなことも問題ない。

 だから、そんな意味の無い質問はしないで欲しい。

 でも、そういう「人の不安」みたいなものがあるから、物語が必要とされる、という背景も無視できない。
 
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 ん、物語を作る人間の最終目標は、外ではなく内にある自分の人生の物語を生きてもらうことか?