幸福に至る物語、その物語る手段

物語が幸福な道筋へ向かうかどうかは、何処で決まるか。

書いていて、この世界のこの人たちを幸せにしてやりたいと思う時、物語る手段が報われるものに変化する。

そうでは無く、本人達に幸せかどうかを決めさせたい時は、物語る手段は乗り越えさせるものに変化する。

報われるには、耐えることや待つことや、ちょっとした勇気や変化へ踏み出す一歩があれば、達成される。

乗り越えるには、より多くを失い続けていかなくてはならず、その意志を何度も粉々に砕いた後、それまでよりリアリティのある覚悟を築かなくてはならない。

その差ができるのはどうしてだろう?
どちらも幸福に至る物語だろうけれど、実際の負担や当人達への枷にこんなにも違いがある。どちらか片方に失礼とも思わず、作品ごとにその物語る手段をとれるのはどうしてだろう。

作者の躾や甘えや、普段の生活に関係するのだろうか。
もっと長い視点で眺めてみて、それまで作者が失ってきたあらゆるものと、手に入れてきたあらゆるものと、その方法や手段と、今現在のそれらと本人の関係性によるのか。


自分の受け手としての好みは、乗り越える物語。送り手として多いのは、報われる物語。それもどうしてなのだろう。