執着と最愛

 だらだらと書いてしまったので、たたみます。
 私は、あまり人に執着しない。と、思っているだけかもしれないけれど。
 私の中では自分を冷たい人、というかすぐに関心が他へ移ってしまう人間だと思っている。器用貧乏。下手の横好き。スペシャリストではなく、平凡なオールラウンダー。幼い頃の憧れは、気配りを忘れずに出来る大人だった。今もそうなりたいとは思う。でも現状そうでは無い。未だに壁にぶつかるとよく悩むし迷う。自分の中で答えを導き出さないと、軽はずみな行動で、誰かを不幸にしそうな自分を知っている。
 でも年齢と共に人前ではそんな素振りを出さずにいられるようになった。不安を無意味に伝染させることは減ったと思う。そこは少しだけ認めている。平気な振りはするけど、つまらない嘘をつく大人にはならずにいる。見栄はあるけど、無意味なプライドはだいぶ減った。と思う。素直な私で勝負してみるのも悪くない気分だなぁと、思える。まぁ、素直となんとかは紙一重とも言うけどね……そこはほんのちょっとだけ、自分を悪くないと思える部分。まぁ、良いんじゃない?と思える部分。
 決して器用では無いけど、身近な人には礼節を忘れないようにしているつもりだ。おそらくそれは、経験がそうさせている。過去の付き合ってきた友人、家族、職場の恩人達。彼らのおかげ。本当にありがたいと思う。
 けれど、彼らは今、私と密接な場所には居ない。電話すれば話せるだろうし、電車に乗れば合いにいける。呑みません?って聞けば付き合ってくれると思う。なになに、どうしたんよ?って。でもやっぱり、身近には彼らはいないんだ、その確信はある。なぜかあるんだ。場所や時間ではなくて、たぶん、それは私の心の中の距離なのだと思う。


 私が安住する場所を持っていないからだろうか?と、ふと思う。
 仕事とやりたいことを平行して続ける生活。昼は働き、夜は物語を書き。これが趣味ですと誰かにはっきり言えるようなものも見当たらない。好きなものは今の仕事と、物語を考えることと読んだり観たりすること。でもこれは、もう人生の一部であって、趣味では無いんだ。私の毎日。大変だけど楽しい私の暮らし。
 「仕事」か「やりたいこと」が私の今の生活を変化させようとしたら、私はたぶんその変化に合わせるだろう。住む場所も起きている時間も変えていくだろう。そうして私の暮らす世界が、四次元的に他の人の世界とスライドしていく。それまでの人間関係から離れて、平行世界みたいにもう一つの未来に枝分かれしていく。


 普通の人はもっと、それに抵抗するんじゃないだろうか?
 普通って言葉は便利過ぎてあまり好きでは無いけど、大多数の人は現状を大切に保ち、そう暮らしていくような気がする。世界がスライドしていかないように、一緒に暮らしていけるように、私の知らない何かを努力してメンテナンスして、守り続けるんじゃないだろうか。自然災害とか終わらない不況不安とか、変化が始まってしまったら止められないのは、私も大多数の人も変わらないだろう。けど、彼らはそれをある程度まで未然に防ぐ手段を知っているんじゃないだろうか。小さな変化やすれ違いを回避するテクニックを持っているんじゃないか。大人になるにつれて、自然にどこかで身に付けるんじゃないだろうか。私はそれを何処かで、スルーしてきてしまったのだろうか。それって、人に執着することじゃないのかな。相手への最愛の感情を持つことじゃないのかな。
 もしかして、そうやって生きている大人は、私が幼い頃に憧れた人間に近いんじゃないだろうか?


 答えは出ない。でも私は今の私も好きで、このまま行ってみようと思う。進んでみないことには答えは出ないと分かりきっている。向こう岸の世界にいる憧れた大人達とも、仲良くしていきたいと思う。彼らと比べることで、私自身が見えてくる気がするし、やっぱり彼らが大好きなのだなぁと思うから。

 私は、あまり人に執着しない。と、思っているだけかもしれない。
 今、手元には答えが無い。